夜の訪れと同時に睡魔が襲う。体内時計とは案外正確なもの。クローバーの塔の一室で休ませて貰った。
案内された部屋は目を見張るほど広かった。間違いじゃなかろうかと何度も確認したのは言うまでもない。
クローバーをモチーフにした部屋のデザインだ。色調は黒と深緑が基調とされていて個人的には好ましい。

が、

如何せん部屋が広過ぎる。最初に案内された部屋(ナイトメアの執務室らしい)も広かったが負けてない。
挙句の果てに自室と思えば良いと言われたがこんなに広かったら逆に落ち付かない。とは言えなかった。
目が覚めたら最初の部屋に来て欲しいと去り際にグレイに言われた。しかしさてはて辿り付けるだろうか。
部屋に残されたはとりあえず少しでも身体を休めようとベッドに倒れ込む。思ったより疲れてたらしい。


(あー・・・制服脱がんと・・・・・)

皺になる

そうは思えど精神的な面で疲弊した身体は休息を求めている。次第に目蓋が重くなっていくのを抗えない。
きっとこれは夢なのだ。だからこんなにも温かく安心することができる。の髪を優しい手付きで撫でる。
温かくて大きな掌。顔がおぼろげにしか浮かばないが父のような気がして顔が僅かに緩む。大好きな手。


「・・・・・」

恐らく寝惚けているのだろう。まるでじゃれつく仔猫のように手に擦り寄るあどけない寝顔に苦笑が浮かぶ。
先程までの警戒を露わにしてた態度から打って変わり今はどうだ。まるで無防備であどけない子供の顔。
どんな夢を見ているのか知らないがあの夢魔のことだ。それが悪夢ならすり替える筈。きっと優しい夢だ。

――でなければこんな寝顔にはならない。

柔らかい烏の濡れ羽色の髪を梳きながら撫でると僅かにもぞもぞ反応し縋り付いていた裾に顔を埋めた。
寝息が乱れていない事から未だ夢の中であるのは充分に分かった。一度眠りに付くと案外深い方らしい。
この世界の住人では到底考えられない程に無防備だ。不意にその唇がとある名前を愛おしそうに紡いだ。

――『怜』、と。

紡がれたその名を耳にし、撫でようと伸ばした手が止まる。この娘が一番に望むのはあくまで『怜』の存在。
たとえ朧げにしか顔が浮かばずともそれは決して揺らがない。にとって揺らぎ無い唯一の者の名だ。
その存在一つで彼女の中の何かが変わる。たとえそれがどんなものであれ一瞬にして変化を遂げさせる。

特別、この世界の住人のだれしもが欲し持ち得ないものをは持っている。なら、何故此処に居るのか。
理由を知る術はない。これ以上勝手な憶測を立てるのも馬鹿らしくなり息吐く。そしてもう一度頭を撫でた。
まだよく眠っている。起こさないように気配を殺して彼はそっと裾を掴む手を解き、ベッドを離れ部屋を出た。



目が覚めて外を見ると夕方だった。思ったより眠ってなかったのだろうか、と思ったが時計を見て仰天した。
普通に8時間以上経ってて驚きだ。仮眠と呼ぶには普通に寝過ぎだろう。服装を整えようとベッドを下りた。
ふとテーブルに丁寧に畳んで置いてあった着替えが視界に入る。「これに着替えるように」と、置手紙まで。


「・・・・・」

用意して貰った手前、着ないわけにもいかない。が、いざ手に取って広げて見ては思わず硬直した。
デザインはとても可愛い。が、どうしてこれを宛がったのか理解できない。というか、着るのだろうかこれを。
明らかに自分に似合わなさそうな女の子らしい格好。だが用意されている以上、着ないわけにいかない。


(デザイン可愛いなぁ)

内心 思う

着てみたら案外可愛い。機会が無いとの、自身女の子らしい格好を好まない為、滅多に着ない服だ。
しかしながらデザインとしては好みだ。黒を基調とした淡い紫のグラデーションが大人っぽい印象を与える。
そしてドレスに合わせた黒のリボンには紫色のハート柄が入っている。相変わらずというかメルヘン調だ。

まさか自分がこんな女の子らしい格好をする日が訪れると露程にも思わなかった。足元が落ち着かない。
付属されたリボンを付けようと努力してみたが慣れないことをするものではない。上手くいかず即効諦めた。
とは言え、置いていくことも憚られてリボンを片手に最初の部屋へ向かった。が、あまりに塔内は広かった。
あっちを見てもこっちを見ても同じにしか見えず、誰かに道を尋ねようにも人が見当たらないから聞けない。


?」

不意に後ろから呼び掛けられて振り返る。と、そこにはユリウスとその隣でひらひらと手を振るエースの姿。
どうやらに声を掛けたのはエースらしい。「おはようございます」と、小さく頭を下げ挨拶の言葉を紡ぐ。
時間帯としては夕方なのにおはようというのも可笑しな話。何とも時間感覚が狂いそうな世界だと思った。

「やあ、おはよう・・・っと、君って相変わらず礼儀正しいよなぁ」

「ペーターさんも見習って欲しいぜ」と、駆け寄って来たにエースが話しかける。ペーターって誰だよ。
口には出さないものの顔に出ていたようだ。「職場の宰相さんだよ」と、回答なのか曖昧な答えが返った。
「ところで」とエースが口を開き目を向けた。つられて視線を落とすとリボン。「付けないの?」と、問われる。

「付けようと思ったんですけど・・・上手くいかへんくて」

何度も挑戦したがどうしても上手く結べなかった。肩を竦めて苦笑半分に答えればリボンを抜き取られた。
「後ろ向いて」と、促されて言われるままに後ろを向いた。というか、向かされた。結んでくれるのだろうか。
家族以外の誰かに髪を触らせるのは久し振りで何となく落ち着かない。が、心地良くて思わず目を細めた。

「あれ?もしかして耳弱い?」

手袋越しに不意に指先が耳を掠めて肩が揺れる。それをばっちり見られていたらしくエースが背後で笑う。
不覚だと思う反面こればかりはどうしようもない。溜息混じりに「強くは無い・・・と思う」と、教える。昔からだ。
どうにも髪をずっと弄られているとぞわりとした感覚が走る、それが苦手であまり触れられるのを好まない。

が、


「・・・・・エースさんもしかして不器用?」

先程、格好よくリボンを取り上げて結んでくれるのかと思いきや数分経過。一向に結び終わる気配が無い。
からかわれるのが嫌でなるべく反応しないように堪えてたがそろそろ限界だ。まさかと思いつつも尋ねた。
が、「いけると思ってたんだけどなー」と、能天気な回答にがっくりと項垂れた。試してみただけなんかい!

「おい、動くと・・・」

散々人の髪を弄っておいて実りが無いとは。即効、距離を取ろうとした。ら、ユリウスが横から口を挟んだ。
が、既に遅い。エースの赤いコートのボタンに髪が絡む。しかも何の嫌がらせがエースが一歩足を引いた。

「痛っ!ちょ・・・エースさん動かんといて!!」

絡んだ髪まで引っ張られる。引いた足に合わせてよろよろ数歩前進する。「ごめんごめん」と、謝罪の言葉。
だが誠意が感じられない。「動かないでくれよなー」と、間延びした声からは嫌な予感しかない。静止する。
「ストップ!それ以上触らんくていいから!」。エースが触ったら悪い方にしか転ばない気がしてならない。

痛みを軽減させようと絡んだ髪の一部を掴む。こうしておけば引っ張られてもある程度は痛みが軽減する。
むしろこのまま引き千切った方が楽じゃなかろうかと思う。が、不意に視界に手が伸びて来るのを捉えた。
「・・・手を退けろ」と、やや呆れた口調。言われるがまま手を離すと器用に絡んだ髪を解いていってくれた。
手付きはエースと違い危なげもない。かなり器用なのだと冷静に考えていると引っ張られる感覚が消えた。


「仮にも女なら無茶をするな。エースも、出来ないならやるな」

取れなさそうなら早々に切ってしまおうと考えてたのがバレていたらしい。そもそも原因はエースだろうに。
思っていたら案の定。ユリウスの説教がエースに飛んだ。そして「貸せ」とエースからリボンを取り上げる。
「後ろを向け」と、同様に促される。苛々しているのか、口調がピリピリとしていたから素直に後ろを向いた。

「ユリウスさんって器用なんやねー・・・・・エースさんと違って」

「終わったぞ」と、背を軽く押された。はっきり見えないが、エースの反応を見る限り出来栄えは良さそうだ。
「ありがとう」と、礼を述べた後にそう付け足すと「ひどいぜ」と、エースが拗ねたような口振りでそう言った。
「ごめんごめん」と、冗談交じりで笑って返す。だが冗談だと言えなかったのは不器用を晒してくれたから。

――流石にアレを冗談だとは言い難い。


「それより、目が覚めたのなら最初の部屋に行くように言われていた筈だろう」

こんなところで何をやってるんだ、とばかりの視線。「あー、えっと、迷いました」と、肩を竦め誤魔化し笑い。
今度はエースが噴き出す。「そっかそっか、君も迷子だったんだな」と、子供をあやす様に頭を撫でられた。
噛み殺すような笑いにいっそ声に出して笑ってしまえ!と思う。我慢されるより笑われた方が余程マシだ。

「・・・お前も人のこと言えんだろう、エース」

笑うエースを尻目にユリウスが呆れたように突っ込む。『も』が強調されていたのは気の所為なのだろうか。
「ほら此処似た様な景色だろ?」と、さも当然のように言うがそれは迷子の言い訳の常套句だと思われる。
見つけてもらったのは幸いだが迷子仲間は出来れば発見したくなかった。は肩を竦めてにが笑った。

「でも、ほんまに此処がひろ過ぎ・・・二人に会わへんかったらもう暫らく彷徨ってたかも」

いやほんと冗談抜きで。このまま誰とも会えなかったとしたらきっと割と本気で彷徨い続ける羽目になった。
おそるべしクローバーの塔、洒落にならない広さだ。口振りは冗談だけど考えるとゾッとする。肩を竦めた。
そもそも自力で来いなんて酷い気がする。確かに仕事時間を割いて貰ってるから文句は言えないけれど。

まあなんやかんやエースとユリウスと合流できたのは幸いだ。二人に連れられて最初の部屋に向かった。
そこでは相変わらず書類の山に囲まれたナイトメアとその横で涼しい顔で次の仕事を用意しているグレイ。
心無し書類に囲まれたナイトメアの顔色が青い気がしたのは気の所為だろう。・・・・・多分。そう思いたい。
「酷いぞ!」と、開口一番にそう言われた。相変わらず心の声を聞くのが好きだなとぼんやりと思った。

が、


「聞きたくて聞いてるわけじゃない!聞こえてくるんだ!!」

さも自然現象だと言わんばかりに反論されても。「はぁ・・・」と、適当な相槌を返せば更に酷いコールが続く。
(うぜぇ・・・)。心の中でそっと呟く。その瞬間、ナイトメアが声を聞いたのか口を噤んだ。物言いたげな視線。
それに気付かないフリをしてグレイに視線を向ける。グレイもこちらを向いた。目が合ったからふわりと笑う。

「おはようございます」

そして先程と同様に頭を下げた。そして「何か思ったより寝てたみたいで・・・」と頬を掻きながらにが笑った。
睡眠時間が8時間なんて仮眠を通り越し本格的な睡眠だ。その間も仕事していたのだと思うと申し訳ない。

「・・・・・8時間?」

ナイトメアがぽつり呟いた。が、すぐに納得した風に頷く。一人で勝手に納得されても薄気味悪いだけだ。
その声が届いたらしく、ナイトメアは「本当に君は私に対してのみ容赦が無いな」と、苦笑を浮かべていた。
「そう?」と、へらりとした笑みを浮かべて答えれば「ところで8時間って?」と、不意にエースが口を挟んだ。

「あぁ、彼女の世界の時間換算だ」

ナイトメア曰くこの世界でいうところの約1時間帯にそれが相当するらしい。なんてアバウトな時間間隔だ。
その言葉に納得したようにエースが相槌を打った。そして「確かに最初は昼だったもんなー」と呟いている。
さも当然のように交わされるその会話に思わず頭を抱えたくなった。流石、不思議の国というべきだろうか。


――まずこの世界の基礎から学ばなければいけないらしい。



後ろも前もわからない、不思議な世界

[2013年4月1日 修正]