待っているよ、待っていて――会いに行くから。
どれだけ意識を沈めていただろうか、誰かに何度も呼び掛けられる声に意識がほんの少しだけ浮上した。
薄らと開けた視界に最初に映ったのは赤。次いで身体を包み込む温もりに抱かれているのだと気付いた。
夢か現か、最中に見たそれと似た光景にほんの少しだけ心が惑う。アレは夢では無かったのだろうか、と。
「メリー!」
「やっと起きた」と、最初に耳に届いたのは最後に聞いた声よりずっと若い。焦りと安堵が入り混じった声。
赤い目がどこか呆れたようにこちらを見下ろしていた。「・・・エース?」と、ほぼ無意識にその名を口にする。
声が掠れていたのは長い間水分を口にしなかったから。「・・・そうだよ」と、どこかぶっきらぼうな声が返る。
ぼんやりとした意識が少しずつ晴れる。周囲の様子が澄んで見えて来て漸く現状理解することが出来た。
いつから居てくれたのだろう。先程から感じてた温もりはエースだったらしい。その腕の中には居た。
エースは物言いたげな様子を隠しもせず「遅いぜ」と、拗ねた様に口にする。待っている、と、言ったのに。
「ごめん」
と、掠れた声で応える。夢の中と相反するエースの言葉には小さく笑った。だけど、待っていてくれた。
こうしてわざわざ探しに来てくれたことが嬉しくて堪らなかった。そんな場所が自分にも残っていたのだ、と。
空いているエースの手を取ってそれに頬を寄せる。ほんの少しだけ驚いたみたいだったが、手は離せない。
(似てる・・・かな)
おぼろげな記憶を辿る
あのとき、触れた温もりはこんな風だったのだろうか、と。無意識に身体が記憶の中にあるそれを求める。
僅かに残る記憶を辿ると明確に残ったのは赤。それが瞳の色だったかまでは分からない。鮮やかな赤色。
だがおそらくあれはエースだったのだろう。あくまで勘に過ぎないがあのとき感じた安堵は今と遜色ない。
むしろ、そうであって欲しいと思った。
出会って随分経ったわけでもない。気紛れに遭遇して話し相手になっただけ。彼は本当の名さえ知らない。
だけどエースと会う度に消そうとしていたものが少しずつ息を吹き返す。そしてあのとき、差し出された手。
掴むことを躊躇う手を引いたその力に惹かれた。否、正しくはその向こうに初めて光を垣間見た気がした。
気付けばそれを求めて歩いていた。ただひたすら我武者羅に。止めていた時間を進めたのは誰だったか。
「・・・いいよ、それより水分摂った方がいいな」
「酷い声してるぜ?」と、そっと手を解き壁に寄り掛からせると、エースはよいしょと埃を払い立ち上がった。
そして泉の方へ足を進めた。持っていた旅道具セットの中から水筒を取り出し泉の水をそれに汲みいれる。
戻って来たエースが「ほら飲んで」と、差し出した。完治したわけでい満身創痍には少し動くだけでも辛い。
「・・・ありがとう」
だが、エースの厚意を無下に出来る筈ない。緩慢な動作で手を伸ばし受け取る。蓋を外して口を近付けた。
しかし舌先に触れた冷たい水に身体が過剰なまでに反応を示す。堪らず咽たにエースが目を剥いた。
「え、ちょっと!?」と、驚きを露わにしたが直ぐに理由に至ったのだろう。やってしまったとばかりの表情。
「そうだよな、いきなりは辛いよな・・・ごめん」と肩を竦める。傷んだ身体に泉の水は少し冷た過ぎたらしい。
自然な動作でから水筒を取り上げるとそれを口に含んだ。一連の行動に今度はが目を丸くする。
片方の空いた手で顎に手を掛け、少しだけ持ち上げた。そして返答を待つこともせず、そのまま口付けた。
歯列を割って生温い液体が口内に流れ込んだ。反射的にエースの胸を押し返そうとするが力が入らない。
「これならいけそうだな」
よし、と、何を納得したのか悪びれ無くエースが言う。確かに喉は少しだけ潤ったが、やはりまだ足りない。
微かに満たされたからこそ余計に欲してしまう。本能的に「もっと」と求める目を向けた。エースが止まる。
だが直ぐに何事も無かったかのように再び水を口に含んだ。そしてまた、先程までと同じ所作を繰り返す。
「やっと、まともに出た・・・」
幾度かそれを繰り返し漸く喉が潤った気がする。掠れることなくいつも通りの声が自然と口から零れ出た。
が、流石にエースの顔をまともに見られない。途中から水を求めるのに必死だったとはいえ、あれは無い。
気まずさは残ったがそっと目を向けると、服の裾で口を拭うエースが見えた。だが、その頬は微かに赤い。
「それは良かった」
と、答えるエース。だが一向に視線が合わない。こちらを一瞥したかと思いきやすぐに逸らされてしまった。
自分でやっておいてと思わなくもないが彼の歳を考えると仕方ないかも知れない。かくいうも気まずい。
微妙な沈黙が続いた後、不意にエースが「メリー」と呼んだ。それに一瞬、は静止する。息が詰まる。
当たり前のこと。がエースに教えた名前は『メリー』だ。だとしたらそちらで呼ばれるのは当然だろう。
あの頃はそれで平気だったが今は違う。一瞬、考えた後にはゆっくりと口を開いた。「・・・」、だと。
エースがこちらに目を向けて首を傾げた。そしてもう一度、伝える。自分の名は『メリー』ではなく、だ。
「」
「・・・私の名前」、と。こちらを名乗るのは随分と久しい。だが長年使っていた分、口にすると自然と馴染む。
エースの赤い瞳との漆黒の瞳が重なる。「知ってるよ」と、エースは年不相応な笑みを浮かべ答えた。
呆気に取られたのはだ。「」と、不意に名前を呼ばれ小さく肩を揺らす。また、手を差し出された。
「いこう、ユリウスが待ってる」
おずおずと伸ばそうとした手をまた力強く掴まれる。そして颯爽とした笑みを浮かべてエースがそう言った。
どうして時計屋が待っているんだ、とか。突っ込みたい事はたくさんある。が、言葉にするより衝撃が強い。
呆然とするを余所に「あ、あと墓守領の皆にも紹介しないとな」と、話をどんどん勝手に進めるエース。
――ついていけない。
「・・・なんで?」
躊躇いの声が零れて困惑を隠せないまま、エースに視線を向けた。なんで、どうして、そうなったんだ、と。
対するエースは何を言ってるのか分からないとばかりに首を傾げる。何がおかしいのかさも当然とばかり。
「何で、って・・・なんで?これから暮らすんだから当たり前だろ?」
しれっと言われた言葉に絶句する。だからどうしてそうなっただと言いたい。否、言わないといけない筈だ。
が、気付けばエースに抱き上げられていて弁明の余地が無い。何より急展開過ぎて処理が追い付かない。
の答えも待たず「あ、ちょっと揺れるぜ」「しっかり捕まってなよ」と、言葉を連ねる。そして走り出した。
口を開こうにも結構なスピードで下手したら舌を噛みかねない。不安定な体制に思わずエースに掴まった。
否応無しに安定を求めてエースの首に腕を回すとこちらを一瞥したエースはどこか上機嫌で速度を上げる。
あまりの速さに墓守領に辿り着く頃には精魂も尽き果て、声が出せない状況に陥ったのは言うまでもない。
あれからエースのとりなしもありは今、墓守領を滞在地にしている。自身が『メリー』というのを隠して。
だけども、領主のジェリコ=バミューダと、時計屋・ユリウス=モンレーはおそらくは気付いているのだろう。
しかし、何も言及されなかった。捨て猫を拾ったことに関して主にエースがユリウスのお叱りを受けていた。
とは言え――いつまでもその厚意には甘えていられない。
「・・・時間を割かせてごめんなさい」
エースがダイヤの城に戻っている時を選んでジェリコを尋ねた。最初は驚いた顔をしたがすぐ迎えてくれた。
怪我の後遺症で引きずるようになった右足を案じて座る様に促された。香ばしい珈琲の香りが室内を漂う。
ジェリコは多忙だ。引き留めていることを悪いと思う。だが、いつか話さねばならないとしたらそれは今だ。
彼は墓守領にある美術館館長であると同時にマフィアのボス。それも古くから存在する組織の最大勢力。
も命令でその構成員を始末したことがある。謂わば、ジェリコにとって敵だ。話すことに勇気が要った。
だけどいつまでも隠せない。エースは「言いたくないなら言わなくてもいいだろ」と言ってくれたが、駄目だ。
――これはケジメ。
「ああ、気にすんなよ」
気さくに笑うジェリコ。と言っても、薄々と用件とやらを察してはいるのだろう。「ありがとう」と、礼を告げる。
いざ話そうとしても上手く言葉が出ないもの。瞑目してゆっくりと深呼吸する。何と切りだすべきなのだろう。
メリーは自分です?それとも、あなたの民を殺したのは自分です、とでも?口にすればするほどに滑稽だ。
思い出せ、覚悟なら出来ていた筈だ。
「私、「始末屋メリーって知ってるか?」」
口を開こうとしたのと同時にジェリコが言葉を重ねた。その言葉には言葉に詰まる。彼から振るとは。
「マフィアの構成員・・・やっけ?」と、声が震えそうになるのを堪える。先手を打たれただけで言えなくなる。
それに対してジェリコは「うちの連中も結構やられたよ」と、まるで世間話をするかのようなノリで口にする。
意図の読めないジェリコの言葉に耳を傾ける。『メリー』は死んだのだ、と。死体さえ見つからなかった、と。
言葉が刃のように容赦なく刺さる。「・・・当然の末路やな。血に汚れた屑の」と、平静を装ってそう口にする。
『メリー』は死ぬべきだった。死ななければならなかった。組織壊滅後も存在するには殺め過ぎてしまった。
確かに――『メリー』は死んだ。
だけどもはまだ生きている。いつかそんな最期が自分にも訪れると知っている。否、そうあるべきだ。
『メリー』はであって、は『メリー』である。謂わば鏡に映し出された『もう一人の自分』の姿。鏡像。
仕方のないことだったとは言わない。自分の身を守る代償にたくさんの命を奪ったことは紛れもない事実。
自分が平穏や幸福を望むことなんて出来ない。だからいつか、傷が癒えたら墓守領を去ろうと思っていた。
を温かく迎えて心を砕いてくれた皆には悪いと思う。大好きだ。でも、だからこそ此処には居られない。
優しさに甘えることはできない。いっそ全てばれてしまえば良い。ばれて、憎まれて殺されたって構わない。
それで許されるとは思わないし、救われるとも思えない。だが何が出来るか考えたらそれしか浮かばない。
「あるよ」
と、短く答える。ジェリコは言った。「メリーに会ったことあるか?」と。それは気紛れな問いだったのだろう。
後に「あるわけないか」と首を横に振り否定し「会ったら生きちゃねぇ」と、続けた。ありえない繋がりだ、と。
一般人と始末屋が遭遇することなんてない。なぜなら始末屋は仕事の際に目撃者を残すことはないから。
「・・・へぇ」
流して終いにする筈だったが、その返答を受けてジェリコが言う。興味深そうに視線を向けて続きを促した。
だけどひとりだけ。一人だけ例外が居る。何度、血に塗れ始末を執行する姿を目撃しても殺されない存在。
「きっと一番殺してやりたい存在かもな」とまるで他人事のように呟きはぼんやり窓の外に目を向けた。
――でも、殺せない。
「流石のメリーもてめぇの始末はできねぇってワケか」
ジェリコが笑った。その言葉に否定も肯定もせずも微笑んで応える。ジェリコの言葉に間違いはない。
何度殺そうとしてもその分だけ失敗を繰り返す。殺してやりたいといくら思っても、どうしても殺せなかった。
結局は『メリー』が消えてだけが残ってしまった。共に消えるべきと分かっていた。でも縋ってしまった。
「・・・片方が消えたら、一方も消えるのが自然なことやと思うけど」
二人が鏡に映し出された鏡像と実体とすれば、鏡を叩き割ればどちらか消える。どちらかなんて知らない。
否、どちらが本物かなんてもう分かっている。「あんた、救われたいと思ってんのか?」。不意に問われる。
「まさか」と、間髪入れず答える。「それなら最初に貴方に真実を伝えてる」と、続けた。エースが止めても。
否、エースは止めてくれるか怪しい。が、本当に救いを求めるなら最初から自分の正体を明かしただろう。
ジェリコとしてマフィアのボス。部下を殺めた相手を知って野放しにできない。何らかの処置が必要となる。
裏社会において最も簡潔かつ明確な処置は命を奪うこと。命を以って償わせることが見せしめであり牽制。
嫌というほど目の当たりにしてきた。一つ真実を口にすればジェリコはを処分しないわけにいかない。
「・・・・・侮るんじゃねぇよ。命を奪わずとも方法はいくらでもある」
不意に声のトーンが下がった。今の言葉はジェリコの不興を買ったらしい。随分とお優しいボスだと思った。
確かに命を奪わずとも方法は幾らでもある。永遠に続く苦痛を与えることだって可能。普通なら赦しを乞う。
しかしながら世の中そんな普通の人間ばかりではない。はその言葉に口角を持ち上げフッと笑った。
「それが狙いやとしたら?」
そう口にする。時が止まった。ジェリコは言葉を失った。なぜ仮定の話にこんなにも信憑性があるのか、と。
それがある種の真相を帯びていることはわかる。しかし、は敢えてそれを仮定の話として語ったのだ。
時間が意味を成さない世界で永遠とも言えるだろう。生きることも死ぬことさえ叶わない。無限に続く地獄。
そこに意志など存在しない。生きれば苦痛が永遠に続く。仮に死ねたとしたら余所者はそこでおしまいだ。
永遠か終焉か、どちらに転んだところで然程大差ない。最初から望んでいたものだ。どちらでも構わない。
「私が求めてるのが、救いが・・・・そうやとは思わへんの?」
それは救いとが呼ばない。否、救いと呼ぶのはごく僅かで、それを望む者が如何に哀しい存在であるか。
いつか見た時よりずっと昏い光を宿すようになった、とジェリコは思う。『メリー』である時間がそうしたのか。
はたまた、そんな風にしか考えられなくなる程の何かがあったのか、と。だが、それは考えるだけ不毛だ。
「だが、あんたはそれを求めちゃいない・・・いや、求められねぇ」
ジェリコの言葉にはすっと目を細めその続きを待つ。彼女は救いを望まない。否、望むことができない。
永遠も終焉も始まりがないのだから存在しようが無い。停滞した今を甘んじて受け入れる。それが罰だと。
その先に救いがあると思ってない。否、存在してはいけない。「はじまってすらいないからな」と、続く言葉。
瞬間的に殺気が膨れ上がる。ぴりぴりと頬を刺すその気を身に受けて地雷だったことをジェリコは悟った。
だがそれは本当に刹那のもの。膨れ上がったそれは唐突にして一瞬で収束する。はにこり微笑んだ。
「なら、はじめようか」
「ジェリコさんにはちゃんと話そうと思って」と、不意にへらりと笑ったかと思うとはしれっと言葉にした。
最初からそのつもりだった。この場所を出て、最初からやり直そうと決めていた。元の世界には戻れない。
でも『メリー』としてでなく、として一人で生きてみようと考えていた。エースと再会する以前からずっと。
「は?」
唐突な言葉にジェリコは素っ頓狂な声を漏らした。この子は何を言い出すのか。意図がどうにも読めない。
笑顔を崩すことなくは言葉を続ける。「墓守領を出ようと思って」。一人で生活する、などと言い始めた。
「・・・城に行くのか?」と尋ねる。ダイヤの城には今、墓守領を出たエースが住んでいる。そこに行くのかと。
が、
その問いには首を横に振る。ダイヤの城にはいかない。そこにエースが居る。それでは意味が無い。
「どこか静かな場所に住もうかなと思って」と、悪びれもなく口にする。誰とも交わることのない静かな場所。
時が流れるのを待つならそれが一番良い。手を引かれて飛び込んだ先はには少しばかり眩し過ぎた。
「私として生きるにはちょっと優し過ぎるんよね」
肩を竦めそう口にする。ずっとこの場所に居たら遠くない未来に自分は駄目になる。そんな予感があった。
ここは優し過ぎる。罪を犯した自分には温か過ぎて居心地が悪い。好きだからこそ離れてしまいたくなる。
「・・・・・なら、あんたはここに居るべきだな」「は?」。不意にジェリコに言われた言葉に間抜けな声が出た。
「それが償いってもんだろ?元・始末屋さんよ」
さらりと正体を知っていると突き付けられる。物言いたげにジェリコに目を向けると知らぬ顔で笑っている。
「」。なあ、と呼び掛けられて名を呼ばれる。『メリー』の次はそっちで呼ぶのか、と少なからず思った。
そして言葉の続きを待つようにジェリコを一瞥した。「メリーは死んだ」と告げられる。そんなこと知っている。
ジェリコに言われずとも『メリー』がもう存在しないことは自身が一番理解している。彼女はもう居ない。
その存在を消し去ったのは他の誰でも無いだ。だからと言ってその罪まで全て消え去るわけじゃない。
ちゃんと償う意志はある。だがジェリコはここに居ることが償いだと言った。その言葉には眉を顰めた。
なぜそこに行き着くのか、と。否、頭で理解しているからこそ認め難い。ジェリコは目を背けさせてくれない。
「あんたはここではじまって、ここで終わるんだ」
この温かい場所から離れることなく、温かい人達と触れあい続ける。偶に帰って来るエースをここで待つ。
そして向けられる笑顔に同様に応えてその輪の中で存在し続けること。それこそがの償いなのだ、と。
「まあ盤面が変わっちまえばあんたを縛ることはできんがね」と、彼は笑った。「墓守頭さんいる?」と、声。
「、見かけなかった?」
――そう言ってドアを開けたエースの顔を見て、少しだけ泣きたくなった。