役立たずには役立たずなりの使い道がある――それを知っていたから私は今まで存在できたのだと思う。
ついさきほど「さよなら」を告げたあの子は泣いてるかも知れない。でもきっともう2度と会うことはできない。
否、会うべきではない。
アリスの幸せを願うならば傍に居るべきではないと思う。私とあの子は少しだけ似ていて、だからいけない。
どれだけ相手を大切に思っても空回ってしまって、お互いに傷付けてしまう。不器用なところまで似ていた。
誰よりも幸せを願ってやまない大切な友人だから。だから離れたその場所から相手の幸せを祈ろうと思う。
帽子屋にアリスを取られたことは正直なところ面白くない。アリスが選んだ相手だとしても、少し妬ましい。
だけど、本当に大切に思っていることは悔しいけど、見ていて分かった。だからアリスのことを任せたんだ。
おかげでもう迷うこともないし、余所見をしないで臨むことができる。ケリを付けなければ。すべて清算する。
(そしたら・・・会いに行っても、いいかな)
少しだけ 顔がほころぶ
さよならする前に――いちどだけ
拠点に戻ったを出迎えたのは厳つい構成員だった。銃を向ける彼等に気後れもせず先導に続いた。
案内されたのは当然ながらボスである男の元。椅子に腰かけ指を組み足を組んだその姿は威厳を感じる。
「おかえり メリー」
そう言って、迎えた男に対する忠誠心は最初から微塵も存在しない。銃を突き付けられて膝を折らされる。
渋々とそれには従うが、男に向けた視線は相変わらず反抗的だ。男はそれを咎めるわけでもなく笑った。
そして不意に顎をくいっと持ち上げて構成員に命令を与えた。背中を強く押され地面に這い蹲る形になる。
「・・・・随分と手厚い歓迎ですね」
「帰ってこないと思いましたか?」と、屈辱を堪えながら笑ってそう言った。周囲の殺気が更に強さを増す。
アリスが居ない今男の執着は完全にに向いていた。身を持って知った。それは切り札に成り得る、と。
その可能性を秘めていると踏んだ。あくまで仮定に過ぎないし、それに頼る気もさらさらないのだけれども。
「ああ、心配で夜も眠れなかったよ」
と、男はの抵抗を楽しんでいるのか、相変わらず余裕を崩さない。更に「悪戯をしたそうだな」と、続く。
「さて?覚えがあり過ぎて一体どれのことやら」と、怯んだ様子もなくはふっと小さな笑みを浮かべた。
帽子屋屋敷で仮面を落としたせいで、今は素顔を隠すものは何も無い。男に向けられたのは漆黒の双眸。
最初に惹かれたのは、この双眸の色だったことを男は思い出す。アリスの瞳も興味を惹く代物ではあった。
しかしの持つそれはこの国には珍しい。居ないわけではない。が、その中でも群を抜いて稀少だった。
――それを欲しいと思ったのはいつ頃だったか。
興味本位で拾った猫はどちらも男に懐かない。特には男に対する反抗的な姿勢を崩そうとはしない。
アリスの方が扱い易いと感じる程にもう一人の余所者は扱い難かった。そんな彼女を唯一、御せる存在。
それがもう一人の余所者であるアリスだった。どちらか欠けても手に入らないそれに強く興味を惹かれた。
「余所者のもとに・・・刺客を送ったそうですね」
と、目を細めが問う。自分も余所者の癖にわざわざそんな言い回しを選んだことに笑いが込み上がる。
空気が変わった。ファミリー屈指の構成員が捕えられたことは組織を震撼させた。そして原因が発覚した。
「・・・やはりお前だったか」
男はやれやれとばかりに溜息を漏らした。さして驚くことではない。想定内だった。ならやるだろう、と。
まさか本当に成し遂げるまでに腕を上げたことは意外だった。不意に立ち上がり、との距離を縮めた。
男はにこりと穏やかに微笑む。そしてその小さな身体を容赦ない力で蹴り飛ばした。壁に叩き付けられる。
「っ・・・く」
受け身を取る間も無く叩き付けられ、身体はずるずると崩れ落ちる。呻くような苦悶の声に男はまた笑った。
「どうやら、躾が足りなかったか」と、白々しく言うと床に倒れたの髪を掴み顔を無理矢理上げさせる。
見下すその目が愉快そうに細められたのを目の当たりにして、心底、下種だと思った。殺意が小さく燻る。
こんな男に――と、
(・・・痛いのはあんまり好きじゃないんだけどな)
にが笑い
決してそう言った趣味を持ってはない。だが、このまま無抵抗のまま嬲られ続けるというわけにもいかない。
男が何か言ってるようだが、その言葉は素通りしていく。意識を傾けたのは保持する武器に関してだった。
すぐに取り出せる場所には殺傷力の低い小さなナイフが一本。ほかにも数本。そして懐には彼女の愛銃。
だが出来るだけ武器は最終手段にしたい。多人数を相手に無駄に弾を消費するというのは得策ではない。
とは言え、大人しく虐げられ続けるだけというのも体力を無駄に消耗するだけで、分が悪くなる一方である。
まず男から距離を取るのは必須条件だ。が、その後をどう動くかによって状況も大分変わって来るだろう。
「女だ・・・顔はやめておいてやろう」
慈悲のつもりなのか、余裕を崩さない男には僅かに失笑を浮かべた。この男は本当に見下している。
誰を、なんて今更なことは言わない。「恩情を感謝します・・・ボス」と、は穏やかに笑ってそう口にした。
瞬間に腕に仕込んだナイフで男の腕を傷付ける。苦痛に顔を顰めたのと同時に手の力が僅かに緩んだ。
「ッ・・・続々と・・・っ・・・鬱陶しいねん!」
距離を置いたと同時に、数人の構成員がを止めようと近付いたが触れさせる前に一気に片を付けた。
拘束さえなければある程度は自由に動ける。だが数だけは多くてそれらを捌くのにかなりの体力が要った。
舌打ち一つ吐き捨て、また一人昏倒させる。額にじわりと脂汗が滲んだ。最初の一打が深手だったらしい。
――体力の消耗が思いのほか激しい。
不意に渇いた音が鳴り響く。腹部に熱を孕んだ。じわりと滲む感覚に目を向けると紅が止め処なく溢れる。
身体がふら付いたのを壁に凭れることで辛うじて支える。は僅かに眉を顰め音の発信源を見遣った。
「まさか、引っ掻かれるとは思わなかったよ」と、男は銃を構えた姿勢のまま穏やかに微笑んでそう言った。
「・・・加減が下手なんですよ」
余力は無い。が、それを悟られない様に笑顔を浮かべて平然と言葉を紡ぐ。が、血が止まるわけじゃない。
頭が朦朧としているのはおそらく気の所為ではない。床に血溜まりが出来ているのが視界の片隅に映る。
――終わりかも知れない・・・。
脳裏を掠めたのは明確な死のイメージ。それを受け入れるつもりはないが、状況を見れば決して良くない。
もともとイチかバチかの賭けだったが、負けてしまったのだろうか。このままここで終わってしまうのか、と。
走馬灯のようにこの世界に来てからのことが脳裏を過る。いっそ死を選んだ方がマシと思った日もあった。
(・・・アリス)
笑顔の似合う やさしい女の子
地獄だった日々を乗り越えられたのは、彼女の存在ゆえだ。にとって闇の中を生き抜く力を与えてくれた。
己を貫く事もできず薄汚れていくを優しく包み込んでくれたのはアリスだった。肩を震わせ泣きながら。
「ごめんね」と弱々しく呟くアリスを見て思った。いつかこの子を光の当たる温かい場所に帰そう、と。必ず。
そしてやっと果たせた。もう同じ場所に立つことは叶わないけれど。それでも構わない。アリスが幸せなら。
『 メ リ ー 』
『彼』――の顔が過る
殆ど尽き果てた力を更に振り絞って立ち上がる。援軍が無いから何だって言うんだ。は小さく笑った。
そもそも可能性の範疇で最初から誰かの助けを期待していたわけじゃない。ずっと。最初からそうだった。
まだ、だ――まだ終わらせない。
失血のせいで膝ががくがく笑ったが、形振りを構う余裕は無い。まだ立ち上がれることに周囲は驚愕する。
小さな身体のどこにその精神力を秘めているのか。男は瞬いた後「本当に・・・残念でならないよ」と呟いた。
『メリー』が忠実な僕でさえあれば、さぞや優秀な右腕となっただろうに、と。惜しむ程に彼女は強くなった。
だが『メリー』は決して男に従わない。彼女をそこまで突き動かす存在が何かは最早言うまでもないだろう。
男は初めてアリス=リデルを帽子屋に譲ったことを惜しく思った。上手く使えば充分に飼い殺せたのに、と。
「処分は望まぬところだが・・・・・ケリは付けさせてもらうぞ、メリー」
渇いた音と同時に鋭い痛みが頬を掠める。頬を赤い筋が伝う。本来なら今の一撃で仕留められただろう。
慈悲のつもりなのか、はたまた苦痛を長引かせようとしているのか。男は真っ直ぐにを見据えて言う。
さも残念そうにその言葉を紡ぐ。だがその目は確かに愉悦に歪んでいることは朦朧とした意識でも分かる。
不意に建物が大きく揺れた。耳を劈く轟音と同時に室内に凄まじい爆風が吹き荒んだ。身を縮めて耐える。
煙で視界がはっきりしないせいか、周囲が騒然としている。帽子屋ファミリーの襲撃があったと声で気付く。
近付いて来る複数の気配のなかにはあのエリオット=マーチや、ブラッド=デュプレも居た。間もなく来る。
身体を引き摺りながら爆発の衝撃で開いた大穴に近付く。ここで彼等を迎えるのは少しばかり拙いだろう。
まだ此処に存在するのは『メリー』だ。そして『メリー』は何人もの帽子屋の構成員をその手に掛けてきた。
ここに残れば帽子屋は間違いなくも捕えるだろう。捕縛された構成員の末路を想像するのは容易い。
――捕まれば、終わりだ。
それでは『彼』との約束が果たせない。そもそも果たす気のない事柄を約束とは言えないのだろうけれど。
それでも一度だけで良いから会いたいと思ってしまう。次へ進む前に、光を与えてくれた『彼』に一度だけ。
「・・・・・・」
煙幕が薄れて帽子屋ファミリーが突入するのが視界の片隅に見えた。が、すぐに穴の外に意識を向けた。
常時ならまだしも満身創痍の状況下で、この高さを飛び降りるのは自殺行為だ。が、選んではいられない。
振り返るとそこには特徴的な黒帽子が映った。ブラッド=デュプレ。彼までも突入してくるとは意外だった。
そんなにアリスを嬲られたことが気に食わなかったのか。本当に独占欲が強いというか、規格外れな男だ。
いけ好かないし絶対にそりが合うと思えない男。だがアリスを大切に思っているという点だけは評価する。
「ボス〜捕獲しました〜」
背後から聞こえた部下の報告にブラッドは視線を室内に戻した。建物の中の者は一人を除いて制圧した。
今し方逃げた一人もかなりの深手を負っている。下手をすれば逃走の途中で死ぬ可能性もありえるだろう。
飛び降りる瞬間にブラッドを見て確かに勝ち誇ったように笑った女の顔が過る。あれがもう一人の余所者。
だが、ブラッドの知ったことではない。
無様に地面を這い蹲って森に逃げ込んだそれがどうなろうと、ブラッドにとっては何ら関係のないことだが。
アリスが入れ込んでいると知っていたからこそ、恩情であの爆発で始末してやろうと思ったが何としぶとい。
とは言え、あれだけの怪我を負っていればそう長くないだろう。少なくともあの森はそんなに生易しくない。
なんとなく痛覚が麻痺してきた気がした。血を失い過ぎたことが仇となって、膝の震えが止まってくれない。
せめて少しでも離れなければ、と、夜の時間帯で視野の悪い森の中を身体をひきずりながら闇雲に進む。
血の臭いを獣に嗅ぎ付けられたら危険だが弱っているとはいってもまだ身動きができないわけではない。
満身創痍の身で、周囲に対する警戒心も強まっている。否、警戒というより最早それは殺気に等しかった。
いつかに訪れた泉に辿り着いた。大樹に凭れかかったままずるずると腰を下ろす。これ以上は進めない。
立ち上がる気力もなく、目を開けていることさえ辛い。頭が朦朧としていて視界が霞んではっきり見えない。
足先から冷えていくような気がして本能的に危機感を覚えた。だからといって何が出来るわけでもないが。
せめて、意識を保とうと試みるが力が入らず無駄に終わりそうな気配が濃厚だ。手足がずしりと重たくなる。
抗えない睡魔に見舞われた。緩々と落ちかけた瞼を必死に押し留めようとする。だけども睡魔は止まない。
(そういえば・・・ここだっけ?)
ふと 思い出す
役持ちと関わりたく無くて、無愛想な態度を取ったにも関わらず彼は離れようともせず暢気に口を開いた。
嫌なら離れたら良いものを、それをしなかったのは本心の箇所でそれを拒んでいなかったからなのだろう。
を最初に名乗った通り『メリー』と呼んだ少年は、聞いてもない冒険譚を嬉々としながら語ってくれた。
そこから分かったのは彼に迷子癖があることと、彼の保護者たる人物は尋常ではない苦労をしていること。
でも放っておけないのだろう――そう思わせるほどに彼は若く、愛らしい。
彼の語る話の中でも特に興味を持ったのは、余所者として過ごすアリスの話だった。組織とはまるで違う。
互いに役を割り切るためにその話題は振らずにいたが、エースの口から聞くアリスは昔の姿そのものだ。
とても楽しそうで、そのことに少しだけ安心した。そして思った。ずっと、そんな日々が続けば良いのに、と。
だから――
『君はどうして誰とも会おうとしないんだ?』
ある日、エースは不思議そうに尋ねた。他人にその詳細を語る気は流石に起きなくて無言を貫こうとした。
だが向けられた赤い双眸が無視を許さない。だから仕方なく「それが役だから」とだけ、答えることにした。
自分に与えられた役割とは影であり続けること。アリスが居る限り、存在し続ける影。ずっと分かっていた。
アリスをあの場所に縛り付けているものが何であるのか。そんなことはもうずっと前から理解していたんだ。
それに対してエースは『でも、君は余所者であって住人じゃない。役を持ってるわけじゃないだろ』と言った。
――知ってるよ。
役なんて持たない。端から与えられてない。この世界において自分は役無しで無意味なカードでしかない。
そんな自分が余所者の役を棄てたら、後には何も残らない。どこにだっていけるけれど、どこにもいけない。
どこにいっても無意味な存在だということだけは決して変わらないから。だから『メリー』になりきれたのだ。
『そうやってずっと一人で生きていくの?』
その問いにはただ頷くしかない。それが定められた道だというなら、その道を辿るのも一つの選択だ。
それ以外を望む権利なんてとうに失っている。殺めた命の数を考えれば当然のことだろう。それしかない。
『ふーん・・・君って心底卑屈で鬱陶しいんだな』
と、エースの言葉は容赦なく辛辣だった。だがそれを否定出来ないのはそれが紛れもない事実だからだ。
そんなをエースは『ユリウスに似ている』と喩えた。説明するまでもない、時計屋・ユリウス=モンレー。
エースの保護者であり、領土は持たずともこのダイヤの国でかなり強い力を持った役持ちだ。時間の番人。
彼と直接的な面識は無い。元の世界で得た知識であったり、この世界に来て得た情報だったりとさまざま。
葬儀屋という蔑称で呼ばれ敵も多いようだが、は少なからずユリウス=モンレーに対する好感はある。
それは物語という形式的なもので知った彼の側面を知っていたからだろう。会ってみたい気持ちはあった。
だが顧みればそんな存在でないと思い知る。彼だけではない。こうしてエースに会うことさえも、本来なら。
『会ってみる?』
不意にそんな風に話を振られ思わず目を丸くした。躊躇いもなくエースはそう言ってに手を差し出した。
困惑が募る。エースは立場を理解しているのだろうか。こんなわけも分からない女に何を言っているのか。
掴み返されないことに業を煮やしたのか、エースはの手を引いた。唐突過ぎて反応が追い付かない。
『ほら、行くよ』
急かす様にそう言われて腕を引かれるがは躊躇う様に足を一歩引いた。行ける筈が無いというのに。
「・・・今はちょっと」と躊躇いがちに言えたのはそれだけ。それに対してエースは不思議そうに首を傾げた。
いつなら大丈夫なんだ、と言われた時、言葉に詰まった。頭が真っ白になる。どう返すべきか分からない。
いつなら、いつまで――いつ?
その手を取って、エースの導く場所に一緒に進めるのは、いつなのか。否、そんな日が訪れるのだろうか。
はたして、そんな日が訪れてくれるのだろうか。他人の命を屠り続けた自分に。そんな贖罪のような日が。
「・・・・・が、終わったら」と、か細く答える。それ以上は言葉にできない。したら泣いてしまいそうな気がした。
―― す べ て が 終 わ っ た ら ・ ・ ・ 。
誰かが呼んでいる。頬に触れた温もりに重たい瞼を薄らと開けた。視界はまだぼやけたまま。誰か居る。
声を出すことも億劫でぼんやりとそこに浮かぶ色を追った。ぼやけた視界にもはっきりと映る鮮やかな赤。
まるで血を連想させる――嫌な色だと思った。
それが頭を撫でているのだと鈍った感覚が微かに察知する。慈しむ様に幾度も触れるそれに目を向けた。
微かに笑った気配がした。ほんの少しだけ戻った感覚が温もりに触れていたのが頭だけではないと教える。
たぶんそれに抱かれているのだと思う。この身を包み込むような仄かな温もりに表現し難い安堵を覚えた。
朦朧とする意識のまま、その胸に頭を預ける。また頭を撫でられた。少しだけ髪を梳きながらまた撫でる。
針の刻む音が聴こえる。規則正しいその音が少しだけ心地良く感じる。時間を切り取る音。時が止まる音。
それに身を委ねる様には緩々と瞼をおろした。まだもう少しだけ眠りたい。この温もりに包まれたまま。
「・・・エース」
僅かに動いた唇がその名前を呟く。目が覚めたら会いに行こう。ちゃんと会いに行くと約束したのだから。
不意に頭を撫でていたその手が止まった。そして、それはまた小さく笑った。温もりが微かに頬に触れた。
ほんの一瞬だけ唇に熱が触れる。目を開けようとしたが視界を閉ざされているのか視界は暗闇のままだ。
『 』
――夢か現か、耳元で聞こえた。