アリス=リデルは姉、ロリーナと過ごす日曜の昼下がりの時間を愛する争いとは無縁の普通の女の子だ。
その日もいつもの穏やかな時間を過ごしていた筈だった。服を着た二足歩行の白ウサギが現れるまでは。
白ウサギは突如として青年の姿に変わった。そしてあろうことか私を連れて穴の中へと飛び込んだのだ。
――かくして、望んでもいないのに不思議の国に迷い込んだ。
あまつさえ、連れて来た張本人は忽然と姿を消した。右も左も分からない中で私は一人の男に拾われた。
連れていかれた先でと再会できたことは唯一の救いだった。知らない世界で一人きりは心細いもの。
でも、今思えばそれが正しかったかは分からない。私達は互いに守ろうとして雁字搦めになってしまった。
拾われた先はマフィアという組織。私に与えられたのは『レイシー』という名と、色を用いた諜報員の役割。
周囲はボス直々に教われるなんて光栄だと言ったが、とんでもない。でも生きる為に拒むことはできない。
知りたくもない術を教わる度に少しずつ心が渇いていくのを感じた。弱音は吐けない。私だけじゃないから。
同様にも『メリー』という名と、始末屋の役を与えられた。命を狩る役目。それをは進んで受けた。
他人を傷付けることを望んで、じゃない。
むしろあの子はそれを嫌う優しい子だ。そんなが自らその役を担ったのは紛れもなく私を護るためだ。
其々に与えられた役を身を持って理解した日、人知れず抱き合って泣いた。どちらがマシなんて言えない。
だけど私もも互いを護りたかったのだ。悪夢から抜け出せる日が訪れるまで狂ってしまわないように。
弱音は吐かない。だけど、どうしても一つだけ。私をこの世界に連れて来た白ウサギだけは許せなかった。
勝手に連れて来ておきながら消えてしまったことも、闇の中でもがき続ける私を探しに来てくれないことも。
もしも再び会えることがあれば殴ろうと固く誓った。一発じゃ足りない。顔が変形するまで絶対に殴ろう、と。
でも、彼を憎むことは出来なかった。
夢の中で時折現れる白ウサギは酷く哀しげな表情を浮かべて私を見つめる。泣きたいのはこちらなのに。
言葉を発しようともせず、ただ私を見つめた。何か言えば良いのに、と思った。そうしたらいくらでも罵れる。
なのに彼は何も言ってくれなかった。それが酷く哀しかった。白ウサギは私に言葉の一つ掛けてくれない。
夢から覚める度に言い様の無い喪失感に襲われる。無性に泣きたい衝動に駆られる。だけども泣けない。
――泣いちゃいけない。
「・・・ス!・・・・アリス」
まどろみの中で誰かの声がした。重い瞼を薄らと開けると最初に視界に映ったのはアリスを覗き込む姿。
彼らしからぬ心配げな眼差しだ。気だるさは抜けないが「ブラッド」と、その人の名を呼ぶ。安堵した表情。
それを見てアリスは顔を緩めた。自分は生きていたのだ。そして、ブラッドの元に戻って来られたのだ、と。
「・・・ここは?」
疑問を口にしたが、返答を待つまでもない。鮮明に見えて来たのは見慣れた光景。帽子屋屋敷の天井だ。
それに対してエリオットが帽子屋領に戻って来たんだ、と教えてくれた。次に気に掛けたのはとある人物。
『メリー』――は、どうしたのだろうか。
エリオットが無事ということは、はどうなったのか。最悪の可能性も考えられたがそれは聞けなかった。
『レイシー』の名を棄てたアリスが今更、組織の者の身を案じることは出来ない。でも『メリー』だけは別だ。
言葉にすることすら叶わないそれに心苦しさと罪悪感を抱いた。願わくば彼女が無事であるとを願いたい。
あの場所に置き去りにしてしまった。自分だけ上手い具合に抜けられて望んだ場所に居られるというのに。
心情を誤魔化す様に作り笑顔を取り繕った。最愛の友を気遣うことさえ今のアリスは許されないのだから。
「メリーなら逃げられたそうだ」
「思ったより手強かったらしい」と、不意にブラッドが言った。その言葉にアリスは小さく肩を揺らし反応する。
ゆっくりと顔を上げてブラッドに目を向ければ全て悟られていたのだと気付く。知ってて情報を与えてくれた。
「・・・無事なの?」
差し出された水の入ったグラスを受け取り、問い掛ける。誤魔化すだけ無駄というなら無駄なことはしない。
ブラッドやエリオット、双子の居る中でその話をするのは少し勇気が要る。コップ内の水の波紋を見つめた。
逃げられたとは口にしたが、無事かまでは聞いてない。『メリー』と帽子屋ファミリーは敵対する者同士だ。
帽子屋ファミリーに受け入れられたアリスならまだしも、『メリー』はエリオットが手を抜くべき対象ではない。
とてそれなりに長くその役に居るのだからむざむざやられる程弱くない。それでも不安になってしまう。
「随分とメリーを気遣うな・・・君の愛人か?」
意地悪のつもりかブラッドがそう尋ねた。『メリー』の性別を知らない彼等からすればただならぬ仲なのか。
アリスは緩々と首を横に振る。全てを語ることはの身を危ぶむだけ。「友達よ」。言えたのはそれだけ。
「たった一人の・・・友達なの」
下手に話すものではない。を知らず『メリー』だけ知る者は誤解する。それはアリスには耐え難いこと。
こんな形で終わりが訪れると思わなかった。否、アリスとが終わりを遂げるのは同じ瞬間だと思った。
『 あ り が と う 』
アリスが『メリー』のナイフに倒れる瞬間、確かにその言葉を耳にした。揺らぐ視界の片隅で彼女は笑った。
そもそもあの瞬間、アリスが死ななかったことが全てを物語っている。本当ならあの時に死んでいた筈だ。
だが死ななかった。帽子屋屋敷に戻ってくることができて、こうしてブラッドとふたたび言葉を交わせている。
――それが全てを物語っている。
「お姉さん役無しなんかと仲が良いの?」
子供は無遠慮とよく言ったものだ。躊躇いも建前も無くディーが言った。「変なの」と、ダムが言葉を続ける。
一瞬、頭に血が上りそうになるのを堪える。彼等は事情を知らない。知らないからこその言葉と知っている。
「・・・違うわ」
また首を横に振る。言わなければ分からない。だががまだ闇に生きてる以上その情報は危険なもの。
それでも思ってしまう。『メリー』ではなくを知り、そしてどうかあの子を助けて欲しい、と。望んでしまう。
だが帽子屋ファミリーに受け入れられて間もないアリスにはそれを乞う事が出来ない。アリスとは違う。
余所者の諜報員として帽子屋ファミリーに訪れたアリスと、余所者であることを隠し影に徹するとでは。
それに始末屋という役上、『メリー』は帽子屋屋敷の構成員もたくさん手に掛けてしまっている。言えない。
たとえが余所者だと知ったところで、仲間を殺した『メリー』を彼等が受け入れられるかどうは難しい。
そんな単純なことは頭ではちゃんと理解している。が、を知っているアリスにすればそれは心苦しい。
彼女にも光を――と、望んでしまう。
「違うのよ・・・だってあの子は、」
その先が言えない。否定するように首を横に振れども、肝心なところを話す事が出来ない身がうらめしい。
懇願するように「違う」と否定するアリスに困惑したのは最初の頃アリスを一番疑っていたエリオットだった。
あの頃は気丈に振る舞っていて図太さすら感じていた。今もその一面は消えないがこんな姿は知らない。
「それでも・・・あいつはあんたのことを傷付けた」
「帽子屋の敵には違いねぇんだよ」と、吐き捨てる。妙に『メリー』庇うアリスに少なからず苛立ちを覚えた。
彼女は帽子屋ファミリーの一員だ。だというのに、なぜそこまで過去の『仲間』とやらを執拗に気遣うのか。
それが嫉妬だということにエリオットは気付かなかった。それが愚鈍なうさぎと言われる所以とは知るまい。
・・・・・・夢を見た。
まだ組織に入って間もなかった頃、毎夜男に色を使う術を教わるという名目で抱かれた悪夢の日々の夢。
力で敵わないことは当然ながら、それが役である以上、抵抗することは出来ない。心を殺す術を模索した。
それを得る頃にはアリスは男のお気に入りになっていた。
ボスにとってアリスは飼い猫のようだなもの。不意に呼び出してはアリスを鳴らした。拒むことはできない。
それが無駄だと知っていたし、アリスにとって『色』とはこの世界で生き延びるための唯一無二の武器だ。
明確な殺意を心に秘めながらそれを磨くことに力を注いだ。いつかと一緒に此処を抜け出すのだ、と。
『殺す・・・・今は無理だけど、かならず』
昏い光をその双眸に宿してはそう言った。人を殺めることに抵抗を覚えなくなった頃。諦めてしまった。
アリスを抱きしめてその頭を優しく撫でながら何てことない風にがそう口にしたのを聞いてぞっとした。
こんな物騒な言葉を口にする子じゃなかった。彼女をこんな風に変えてしまった男に対する怒りが沸いた。
だとしてそれを成せるだけの力をアリスは持っていなかった。持ち得たのは込み上がるものを殺す術だけ。
特化させた結果、それはアリスに転機を与えた。今までの生活に何か変化があったかといえば何も無い。
滞在を始めた後も呼び出されては相手をさせられたこともある。罪悪感を抱きながら屋敷へと『帰る』生活。
現実の方が余程悪夢だ。
ブラッド=デュプレに抱いた感情が少しずつ大きくなっていく中で男に抱かれることが苦痛に変わっていく。
殺すはずだったものが募りいくものによって、少しずつ崩されていく。出会わなければ良かった、と思った。
彼に出会わなければ役を弁えずに思い馳せることなんて無かった。変化を望んだりなんてしなかったのに。
最初から何も持たなければそれ以上望んだりなんてしなかった。手にしてしまうからいっそう望んでしまう。
―― 少しずつ隠せなくなっていく。
「アリス」
その声に目を覚ました。ブラッドの声と、すぐ傍に顔があった。彼の腕の中で眠っていたことを思い出した。
昔の夢を見て泣いていたのか、目に浮かんだものをブラッドが掬う。抱き寄せられて、軽く背中を叩かれる。
鼓動のリズムに合わせたそれに安堵する。今が夢じゃないと実感して堪え切れなくなる。その胸に縋った。
「・・・・・ときどき怖くなるの」
今が夢なんじゃないか、と、不安になる。涙声を隠すことなくそう呟く。ブラッドは無言で耳を傾けてくれた。
これが夢で目を覚ましたらあの場所に自分は居るんじゃないか、と。そしてあの日常が繰り返されるだけ。
「安心しろ、夢じゃない」
背中に回された腕が少しだけ強まった。言い聞かせるようにそう言われて、アリスはその胸に顔を埋めた。
ブラッドの胸から聞こえてくる無機質な時計の音に男と行為に及ぶ瞬間のことが脳裏を掠めた。振り払う。
ここに居るのはブラッドだと分かっているのに過去を振り払えない自分に嫌気が刺す。もう終わったことだ。
なのに消えない残像にアリスは苦しみ続ける。例え男がこの世界から消えたとしても変わらない気がした。
そうに至ったという事実は一生消えない。ブラッドに愛される度にそれを思い出しては罪悪感に苛まれる。
「ねぇ」と、不意に顔を埋めたままアリスが口にする。続きを促すようにブラッドはアリスのその髪を撫でた。
「・・・・・終わらせて、って言ったら怒る?」
何を、とは言わない。すべて、終わらせて欲しい。
顔を持ち上げ真っ直ぐにブラッドを捉える。告げられた言葉にブラッドは一瞬目を見張ったがフッと笑った。
掻き抱く様な強い力でぐっと抱き寄せられて耳元で囁かれる。それに応える間もなく強引に唇を奪われた。
呼吸の間すら与えられない。薄らと涙が浮かぶがアリスは微笑んだ。身を委ねる様にシーツの海に沈む。
どれだけ時間帯が経過したのか分からないが、傷は少しずつ回復しアリスは庭先を歩けるまでになった。
帽子屋屋敷の庭には美しく手入れされた赤い薔薇が咲いている。その一輪に手を伸ばしてそっと触れた。
屋敷の主たるブラッドは赤い薔薇を好むのだとか。その理由は彼の探している人物に帰結するのだという。
あのブラッドがそこまで探し求める相手が気にならないわけでない。むしろほんの少しだけ浅ましく思えた。
気紛れにブラッドが教えてくれたのは赤い薔薇の花はその人に重なるということ。触れる手に力が篭った。
「・・・・・なにか用?」
そっと握り締めた手を開けばバラバラに散った花弁が零れ落ちる。棘が指先を傷付けたのか血が滲んだ。
発した声はいつになく淡白なものだった。背後に佇んでいるだろう人物がフッと笑う気配がした。振り返る。
「いえ、それより・・・指を怪我されているようですよ?『アリス』様」
帽子屋屋敷の構成員の格好をした男はそう言ってにやりと笑った。男には覚えがある。アリスの目付け役。
流石に驚愕を隠せなかったアリスは目を見張った。今、屋敷は厳戒態勢にある筈だ。それなのにどうして。
後ずさろうとするがそこは薔薇の咲く花壇だけで道は無い。「場所を変えましょうかレイシー」。男が言った。
「・・・・・どうして」
花園を離れて人気の少ない場所に移るとアリスは開口一番そう言った。抵抗したくとも実力が違い過ぎる。
下手な抵抗は無駄だとばかりに男に言った。彼は組織でも屈指の存在で、ボスの右腕とも呼ばれている。
「ボスが寂しがってましたよ」
「猫が逃げてしまった・・・と」。アリスのどうしてという質問には答えず男は笑顔を崩すことなくそう口にした。
その言葉にアリスは肩を揺らす。「良かったですね、ボスの機嫌がよかったから狙われなかった」と、続く。
暫らくの間、周囲で何の動きも見られなかったのは『レイシー』が死んだと思われていたからと思っていた。
が、それは違った。組織はアリスが生きていたことを知って居た。「メリーが失敗するとは意外でした」、と。
男の言葉にがあの後、無事に組織に戻った事を知る。ほっと安堵したアリスを見て男が小さく笑った。
「新しい猫を見つけてたいそうご機嫌ですから」
聞き分けの悪い仔猫で躾が大変なのだ、と。笑いながら口にする男の言葉にアリスの顔が真っ青になる。
可能性を踏まえればあり得ない話ではなかった。できればそうならないことを願っていた。最悪の展開だ。
あの男が以前から興味を抱いていたことは知っていた。だからその目を逸らそうとアリスは必死だったのだ。
「・・・・条件は?」
声が震え掛けるのを必死に堪えてそう問う。近況報告のためだけにこの男がアリスを尋ねるとは思えない。
にこりと微笑んで「物分かりがいい人は好きですよ」と、男が言う。その報せはアリスに対する脅迫材料だ。
「帽子屋と墓守頭が不審な動きを見せていてね・・・手を組まれると厄介なんですよ」
もともと敵対という程の関係では無かったが、最近帽子屋ファミリーと墓守領が何か目論んでいるらしい。
役持ちが統べる二つの組織の結束は役無しが組織するマフィアにしたら脅威だ。それを潰したいのだろう。
危険を侵してまで帽子屋屋敷に入り込みアリスの元を訪れたのには理由がある。アリスは男を見据えた。
「・・・ブラッドを殺せと言うの?」
相手に全てを語らせるな、と、アリスとに最初に教えたのはこの男だ。その問いに男は満足げに笑う。
「レイシー・・・きみの最も得意とする仕事だ」と、差し出されたのはペンダントの形をした折り畳み式ナイフ。
『色』を用いて相手の隙を作り出す。その相手が、アリスを愛している帽子屋ならなおさら容易い事だ、と。
差し出されたそれに一歩後ずさり、アリスは首を横に振る。絶対に出来ない。ブラッドを傷付けるだなんて。
男は不思議そうな顔をして首を傾げ「どうしてです?」と、問う。「・・・無理よ」。アリスは緩々と首を横に振る。
「簡単なことじゃないか、きみが帽子屋を消せばメリーは自由を約束される」
「きみだって親友を見捨てたりできないでしょう?」と、当然のように言われるとアリスは言葉を詰まらせた。
以前なら即答出来た筈のそれに答えられない。もちろんの事は大切だ。が、ブラッドとて大切なのだ。
言葉に詰まってしまった事実にアリスは動揺する。そして言い様の無い罪悪感が募る。自分は最低だ、と。
愛する人がいる。それと引き換えに友を見捨てようとしている自身に嫌悪感を抱く。どちらかしか選べない。
どちらも守れるだけの力を持たない自分が選べるのは限られている。愛する人か、掛け替えの無い友か。
「どうしたんです?さっさと決めてしまいなさい」と、アリスを追い詰める様に男が言う。ブラッドか、か。
「・・・愚問だな」
答えを出そうとアリスが口を開いた瞬間、第三の声が響き渡る。その声にアリスはハッとして顔を上げた。
視界の片隅で銀髪が揺れる。男は口を開こうとしたが、それは紡がれることなく代わりに苦悶の声が響く。
はたしていつから聞いていたのだろう。男が反射行動に移る前に銀色の刃が男の胸を貫く。血が溢れた。
ナイフを抜くと同時に返り血が僅かに『メリー』の髪を濡らした。気に留めることなく『メリー』が口を開いた。
「アリス=リデルに帽子屋は殺せない」
口元に小さな笑みを浮かべて何の迷いもなく言い放つ。傷口を押さえて崩れ落ちた男は『メリー』を睨んだ。
「っ・・・貴様」と、失血量に余裕を失ったのか、男が口調を荒げる。「おひさしぶりですね」と、涼しく答えた。
「相手に気配を悟らせるな・・・貴方が教えたことでしょう?」と、謳う様に紡がれる言葉に嫌な汗が滲んだ。
「メリー!」
が、それ以上に湧いたのは再会を果たせたことへの歓喜。思わず言ったアリスに『メリー』は顔を向けた。
しかしそれは一瞬のことで、すぐに逸らされた。地面に這いつくばる男を見下ろし『メリー』は更に口を開く。
「どうしてここに・・・って顔、してますね」
「猫は気紛れですから」と、『メリー』は笑った。そして「それに結構執念深いんですよ?猫って」と、続ける。
狙った獲物は決して逃さない――それは猫の習性だ。どこまでも追いかけて必ず狩る。執念深い狩猟者。
その言葉に男は眉を顰めたまま「・・・殺す気なのか」と問う。「他の誰かに奪われるなら」と、彼女は笑った。
刹那、
「っ・・・エリオット!?」
振り翳した白銀の刃が振り切られる前に、『メリー』の頬を一発の銃弾が掠めた。何かが地面に転がる音。
銃声の方にアリスが目を向けるとそこには銃を構えたエリオットと涼しい表情で顛末を眺めるブラッドの姿。
「まったく・・・・・ほんまに厄介やなぁ、三月うさぎ」
やれやれとばかりに懐かしい口調で呟くに目がいく。仮面が外れて本来の漆黒の双眸が露わになる。
それを微かに隠したのは長い『メリー』の前髪だった。無意識にアリスはそんなに手を伸ばし掛けた。
いまならもしかして――と、
「アリスの友人ならば仕方ない。――歓迎させて貰おう、メリー」
「ゆっくりしていきなさい」と、地面に転がる男に目を向けることなくブラッドが不敵に笑い『メリー』に告げる。
「お誘いありがとう。でも遠慮させていただくよ」と、その誘いをあっさりと断った。そしてアリスに目を向ける。
久し振りに向き合ってアリスは僅かに困惑を覚える。嬉しい。だけどそれ以上に複雑な気持ちが膨らんだ。
「・・・・・」
何を言って良いか分からず、アリスは『メリー』の頬に手を伸ばした。新しい猫、と、言った男の言葉が蘇る。
アリスが役を選んだのは彼女をまもりたかったから。無力な自分がに代わってあげられる唯一のこと。
それなのに自分が組織を離れてしまったことで全てが無意味となってしまった。申し訳なさに泣きたくなる。
「アリス」
と、伸ばした手を掴まれ阻まれる。は笑っていた。顔の無い『メリー』とは違って、優しく微笑んでいた。
そして、緩々と首を横に振った。「・・・大丈夫。幸せになってええんやで」と、声を潜めアリスだけに告げる。
掴んだ手をゆっくりと下ろす。一連の言動に何か言おうと口を開こうとしたアリスの頬にそっと唇を寄せた。
アリスは驚いた様に目を見張った。刹那、今度はエリオットのものとは異なる銃声が響いた。離れる距離。
「困った人だ」と、は小さく笑うと軽やかに地面を蹴る。まるで本物の猫のように軽快な動きで消えた。
「落ち付けってブラッド」
と、ブラッドを宥めるエリオットの声が聞こえる。声に紛れて聞こえた小さな舌打ちはブラッドのものらしい。
次第に続々と使用人が集まって来る。そして地面に倒れている男は使用人にどこかへと連れて行かれた。
「怪我はないか」と、近寄って来たブラッドが問うが、声が喉に貼り付いて出て来ない。俯いたまま戦慄く。
「・・・アリス?」
と、違和感に気付いたブラッドが気遣うようにアリスの肩を抱いた。同時に堪え切れずにアリスは脱力した。
支えられたことによって座り込むことは無かったが、アリスは手で顔を覆い隠して小刻みに肩を震わせた。
覗き込んだブラッドが目にしたのは彼女の隙間から零れ落ちる透明の雫と、殺し切れなかった小さな嗚咽。
『 さ よ な ら 』
離れていく瞬間――彼女は確かにそう言った。