「まさか、お前が失敗するとはな・・・・・メリー」

フッと目の前の男が笑う気配がした。『メリー』の体のところどこに傷が見られたのは思わぬ反撃を受けて。
あの場にエリオットマーチが居合わせたことは不運だった。が、それでも当初の目的はどうにか果たせた。
アリスの意識が戻るまで、おそらく相当の時間を必要とする。彼女を傷付けたことに関して罪悪感はある。

が、後悔はしていない。

一番近くで見て来たにすれば『レイシー』の変化は分かり易いもので見ていて微笑ましくさえ思った。
次第に変化していくブラッド=デュプレに対する感情に困惑するアリス。『レイシー』ではない姿に安堵した。
その頃から考えていたことだった。アリスはこの世界に居るべき存在でない、と。アリスは綺麗過ぎるから。
もっと光のあたる場所にいって欲しいと、そう願うようになった。そのためにマフィアの柵は邪魔だと思った。

だから、


「エリオット=マーチが傍にいたのは想定外でした」

と、目を合わせることもせず仕事に失敗して悔しげな『メリー』を演じる。『メリー』に与えられた仕事は一つ。
裏切り者を始末すること。失敗したわけではない。確かにスマートにいかなかったが『レイシー』は消えた。
詭弁だと言われてしまえばそこまでだがそこはマフィア。嘘を真実を織り交ぜて語ることに躊躇いは無い。

「ああ・・・流石のお前といえども、役持ちを相手取ればそのざまか」

その言葉に苛立ちは見られない。つまり端からすんなりいくとは思っていなかったのだろう。だから嫌いだ。
目の前のこの男のことがは嫌いだった。己の仕えるべき相手とは理解しているがどうしても好めない。
仕えるフリをする為に辛うじて憎悪は抱かぬようにしてたが、それに値するだけの感情は常に抱いていた。

それを必死に押し殺して役を演じる。そうしなければここで生きられないことをは理解しているからだ。
否、が生き延びる為だけではない。アリスという足枷が無い今、彼女は一定の自由が利く身となった。
だが、それを行うのは今ではない。機を窺いながら今はまだ息を潜める。来たるべき時を静かに待つだけ。

今は未だ――この場所でするべきことがある。

『彼』との約束が脳裏を掠めた。決して表と交わることのない『メリー』が初めて交わった人物。些細なこと。
その些細な出会いがすべてを変えさせた。ただ諦めて生きるだけだったに新たな道を提示したのだ。


「・・・申し訳ありません。しかし、レイシーは仕留めました」

恭しい態度を取り繕いながら『メリー』は告げる。形はどうあれ『レイシー』を始末したのは紛れもない事実。
それに対し同意するように男は頷く。始末屋としての仕事は確かに果たした。気付けば部屋には二人きり。

「レイシーは・・・な」

にこりと微笑み男は言った。その言葉には思わず固唾を飲む。その意味がわからないわけじゃない。
距離を置いていたことが仇となったか、少しばかり男を侮っていたらしい。そこまで見透かされていたとは。

「っ・・・ただの、余所者の女など捨て置いても問題ありません」

「それにあれはもう使えない」。身体が強張るのを感じながら、捲し立てる様に言葉を紡ぐ。そう、使えない。
アリスを傷付けてそうしたのは紛れもない自身だ。急所を外したとはいえ意識を取り戻すのはまだ先。
その間アリスの口から組織の情報漏洩はあり得ないし、彼女が目覚めるまでに全て終わらせるつもりだ。

「だが、それは私の命令ではない。私は始末しろと言った筈だ」

「それは・・・レイシーを、でしょう?」。威圧的なボスの言葉に怯むことなくは反論する。まるでへりくつ。
だが男が本気で物を言ってるわけではないことは知っている。彼はが抵抗するのを楽しんでいるのだ。

彼は退屈を好まない。

故に最初にアリスとをマフィアに招き入れた。それを二人が望もうと望むまいとそもそも関係無かった。
知識も力を持たない二人の余所者にとって生殺与奪を男に握られている以上、抵抗出来る筈が無かった。
提示された選択肢を否応無しに選ぶだけ。望まないことであっても。狭間で揺れるのを見て愉しんでいた。

順応しつつある今も、彼にとってもアリスも弱者に変わりは無いのだろう。盤上で踊っているだけの駒。
たとえ反旗を翻そうとどうとでも対処できると踏んでいるのだろう。そこが高慢ちきなこの男の隙ともいえる。
彼は理解していない。たとえ弱い生き物であっても形振りさえ構わなければ形勢逆転できる可能性のこと。
そしてこれから先もきっと気付かないのだろう。身を破滅させるその時まで。とて教える真似はしない。


「ふむ・・・お前はもう少し利口だと思っていたのだがな」

「レイシーもアリス=リデルも同一だろう?」と、男は溜息混じりに言う。そんなことは最初から知っている。
遊びは終いだとばかりに男は立ち上がった。次に口を開けば間違いなくアリス=リデルの抹殺を命令する。
『メリー』ならばそれに応えなければならない。しかしがアリスを殺せる筈が無い。なら選択肢は一つ。

「・・・・・私にアリスは殺せません」

任務をこなせないということは役立たずであるのと同義。自身も始末対象に入るが背に腹は代えられない。
どれだけ時間を稼げるかは分からないが少なくともアリスが帽子屋ファミリーに居る限り安全なのは確か。

「役を果たせない・・・と?」

「それは困ったな」と、男は笑った。本心では微塵もそんなことは思ってないのだろう。代えは幾らでもある。
不意に男がかつかつ歩み寄り距離を縮めたかと思いきや不意にの頬を撫でた。思わず目を丸くする。
同時に込み上げてくる嫌悪感を必死に堪えた。今のは全て受け入れる以外の選択肢は存在しない。

「・・・制裁は覚悟の上です」

目を伏せながら吐き出す様に言う。下手をすれば動けなくなるだろうし、最悪、命を落としてもおかしくない。
マフィアという組織において、絶対的な存在であるボスの意思に背くということはそれだけの覚悟を要する。
だが、たとえ一時凌ぎとはいえ時間を稼ぐのならもうこの手段しか残されてない。諦めと同時に腹を括った。

唐突に容赦ない力で髪を引っ張られる。銀色のウィッグが落ちて露わになったのは本来の烏の濡れ羽色。
その髪さえも鷲掴みにされたら痛みも走る。「・・・っ」。だが、声を殺すことは憚られて無理矢理声を殺した。


「望んで仕置きを受ける・・・か」

「いい覚悟だ」と、掴む力を微塵も緩めることなく男は吐き捨てる。フッと口元に浮かべた笑みは加虐的だ。
これから起こるであろう事を想像すると今この痛みなんて可愛らしいもののような気がした。されるがまま。

「・・・っ」

返す言葉もなくは男に目を向けた。否、完全に変装が解けたわけでないからそこに顔は存在しない。
するりと男が輪郭を撫でてその仮面を外す。そこに在るのは闇よりも深い漆黒の双眸。決して揺らがない。
アリスの空色の瞳とは違うがこれも悪くは無い。だが一つ、男が気に食わないことがあるならそれは目だ。

姿勢に反して屈する気はまるで無い。弱者でありながら、強者たる己に逆らうその眼差しが気に食わない。
思えば最初の頃からこの娘はそうであった。アリスという足枷があって、表立って逆らおうとはしなかった。
役を得て、役の分だけ忠実だったが、基本は不干渉を貫いて、己に対して決して服従することは無かった。
それが男にとって気に食わないことであり、同時に興味をそそった。その存在は男の征服欲を掻き立てる。


「・・・ちょうどいい。以前から生意気だと思っていたんだ」

「躾が必要だ・・・とね」。突き飛ばされたかと思うと、背中に柔らかい衝撃が走る。その先がベッドだと知る。
予想していたものと異なる展開には初めて困惑を覚えた。否、可能性として存在したが極めて低い。

あり得ないとさえ思っていた。

が、男がこうしての動きを押さえている状況を省みると現実である。手首を掴まれて小さく肩を揺らす。
男の指す躾の意味を明確に理解した。嫌悪感が込み上げてきたが抵抗出来ない以上、堪えるしかない。
せめて男の前で惨めな姿を晒すことの無いように、気丈でいなければいけない。悦ばせる気なんて無い。
抵抗は許されない。薄暗い部屋の中ではぼんやり天井をみつめた。そっと込み上がるものに蓋する。



『メリー』が彼と会ったのは偶然だった。標的の始末を終えてアジトに戻る前にどうしても血を洗いたかった。
少しでもアリスに血の香を気取られないように、と。そこは森の奥で人気もない。『メリー』の仮面を外した。
水中に潜って酸素の限界まで沈んだ。ぼんやりと、水面を見上げると光が僅かに射して光の粒が揺れる。

こんなにも眩しかっただろうか、と思った。もうずっと見ていない様な気がする光に居心地の悪さを覚える。
太陽の射す世界から逃れる様に目を背けた。今の自分には眩し過ぎる。闇に長く居過ぎたかも知れない。
組織のために人を殺める。それが仕事だと割り切れたらこうも悩むことは無かった。嫌悪感が込み上がる。
自分が綺麗だなんて思ったことはない。だが、仮に元の世界に戻れたとしても、もう戻れないな、と思った。


(・・・それをもう望めない)

自身が

元の世界にはアリスは居ないが、友人や家族が居る。が生まれて育まれた世界が確かに存在する。
だが今の自分にはその資格は無い。両親は人を殺めさせるために娘を生んだわけではない。裏切り行為。
身を守るためだ、と言い訳は出来ても現実は変わらない。は人を殺めた。もう無かった頃に戻れない。

圧迫感に胸が苦しくなる。

水面に浮上して大きく息を吸い込んだ。ギリギリまで追い詰めたせいか肺に入った酸素は息苦しさを招く。
生理的に目に涙が溜まる。それは息苦しさゆえだと自身に言い訳して、ゆっくり息を吸い酸素を取り込む。
人を殺めたことに罪悪感はあるか、と、問われたら多分ある。それは元の世界で擦り込まれた道徳心だ。

いかなる理由があったとしても、他人の命を冒す真似をしてはならない。それはいけないことなのだから。
だが本能の囁く領域ではそれも仕方無いと少なからず思う。自分と知らない誰かの命。比べるまでもない。
それが自分だけなら執着しなかった。だがその時、の傍にアリスが居た。彼女にやらせるくらいなら。
結果としてそれが正しかったのかは分からないが後悔はしてない。する権利も無いと充分に理解している。

悲しんではいけない。奪う側である自分は毅然と佇まねばならない。振り返ることなくただ前だけ見据える。
いつか裁きの時が訪れるというならそれも構わない。せめて成すべきことが終わるまでは、振り返らない。
終わりを待ち続けながらは役を演じる。始末屋の『メリー』。血に塗れた道を闊歩しながら進み続ける。


「あれ?こんなところに泉なんてあったのか」

ぼんやりとしていたの耳に不意に声が届いた。ハッとして振り返るとそこには赤い目をした少年の姿。
一目で役無しでは無いと気付いた。青い服を来た少年はの格好を見ると僅かに頬を染め顔を背けた。

何事かと思ったが、己の格好を見て理解する。そういえば裸だったなと。そんなことにさえ疎くなっていた。
持っていた布で水気を取り服を纏う。変装してないせいか、始末屋の服はには似つかわしくなかった。
「もういいよ」と、親切にも気の後ろで待ってくれていた少年に告げると、彼はゆっくりとこちらに向き直った。


「君・・・役持ちなん?」

次いで口から零れたのはその問い。本来、関わるべきでない役持ちに自ら話しかけていることに違和感。
少年は「そうだけど、君もそうなの?」と、返した。確かに今のには顔があるのだから当然の質問だ。
そこまできて返答に行き詰った。は役持ちでは無い。だが自分が余所者だと答える事も儘ならない。

自分は一体何なのだろう。

役持ちでもない。役無しでもない。だけど余所者だとも言えない。存在が確立させられない不安定な身だ。
アリスは任務の関係上、余所者だということを明かして生活してる。おそらく少年も知り合いなのだと思う。
だからこそ関わるべきでない。関わってはいけないと分かっている。自分がしくじればアリスも危ない、と。
不意に少年が「俺の名前はエース」と、名乗った。墓守の領土に滞在しているらしい。赤い目を向けられる。


「・・・メリー」

その目の言わんとする事は察せた。名乗り返さねばならない。そしては僅かに声を潜めてそう言った。
『レイシー』であり『アリス』であるアリスと違う。はあくまで影たる存在『メリー』で居なければならない。
そこに個は必要ないと知ってる。拭い切れなかった水滴が髪からぽたりと零れ落ちて地面に染みを残した。





選択した日からずっと決めている。

[2013年10月8日 脱稿]