「悪酔いとか・・・さいあく」
脈を測る様に首筋をエースの指が滑る。他意が無いことは分かっているがびくりと小さく身体が反応した。
殺すつもりが殺し切れなかった声が夜風に溶ける。自分でも驚いたのかは窺う様にエースを見遣る。
――最悪だ。
触れられて反応してしまったことは言うまでもなくバレていた。「・・・もしかして感じた?」。耳元で囁かれる。
わざとなのか吐息が耳を掠めてまたぴくりと身体が反応する。堪らなくなって胸を押し距離を置こうとした。
が、その手首を捕えエースが更に追い詰めようとする。「確かに珍しいな。が酔うなんて」と、笑い声。
「っ・・・るさい・・・な・・・」
は決して感度が良い体質というわけではない。不感症と言うわけでもないがごく一般的だと自負する。
にも関わらずたかが肌を掠める感覚にこうも反応してしまう理由。それが分からないほど鈍くないつもりだ。
「そのままだと辛いだろ?」
熱を帯びた漆黒の双眸にこうも熱い眼差しを向けられるとエースとて思うところがある。気遣う様に尋ねた。
おそらく混入された『何か』が原因なのだろう。元がそういう性質だったか、はたまた変異した性質なのか。
今は論ずることではない。輪郭をなぞるように頬を撫でれば今度こそは肩を揺らして小さく声をあげた。
「・・・い・・・や・・・ぁ・・・」
だが場所が場所なだけに抵抗感があるのだろう。拒否の意を示すがその拒否の声に微かに甘さが宿る。
いつもなら出来得る限り声を殺すがそれすら儘ならない状況にある。どことなく煽情的な光景だった。
確かに彼女の抵抗が理解できないわけではない。此処は彼女の領域たる店で無くマフィア達の集会所だ。
あまつさえ屋外ともなれば抵抗感もあるだろう。だが此処は屋敷から離れていて人気も殆ど感じられない。
仮に気配があったとしてもそれを刈り取る術はエースに幾らでもあった。言葉を呑み込むように口付ける。
器用に片手でジャケットを脱いでそれを芝生に敷いた。流石に拙いとも感じたのか身を捩り抵抗する。
だが、なぞるように背中を撫でられてびくりと身体が跳ねる。まさかこんなにも効いてるとは想定外だった。
抵抗するように弱々しくだがエースの胸を押した。が、それを無視し小柄な身体をそっと芝生に横たえた。
「苦しんでいる御主人様をそのままにしておくなんて・・・俺にはとても出来ないぜ」
何と白々しい言葉だろう。本人もその言葉に本意など微塵も込めていないのだろう。騎士らしからぬ笑み。
悔し紛れにネクタイを掴み思い切り締め付けてやった。こうなってはおそらく抵抗するだけ無駄というもの。
「ん・・・っ・・・思っても・・・ない・・・くせに・・・」
項をなぞる様に滑る唇は少しだけ乾燥していて、肌を掠める度にくすぐったい。視界に映った髪を掴んだ。
漏れてくる声は情けなくて屈辱的だったが何か言葉にしなければ込み上がるものに苛まれてしまいそうだ。
ぬるりとした感触が鎖骨に触れた。びくりと反応して髪を掴む手に力が篭った。「痛いって」と、エースの声。
「本当に信用無いよなぁ・・・こんなにも献身的に尽くしてるっていうのに」
痛いというのも、口先だけのものだろう。だがその言葉に反応しての力が僅かに緩む。素直なものだ。
笑いを噛み殺しながらエースがそう答える。それに対してが返すのは「・・・うそつき」という言葉だけだ。
本当の嘘吐きははたしてどちらか。だがそれを問うたところで恐らくははぐらかして終わらせるだろう。
否、もしかしたら余裕のない今なら本当に近い答えは返って来るかも知れない。だが問う気にはならない。
爛れた関係性を成立させているものこそが嘘だ。逆に言うなれば、嘘がなければこの関係は成立しない。
「ゃ・・・だ・・・しつ・・・こい・・・っ・・・の・・・馬鹿犬・・・」
弱い場所を執拗に責めれば堪らなくなったのか、切ない声が・・・期待するだけ無駄だと知った。罵られた。
偶には恋人ごっこのような睦言があって良いものを目の前の彼女は容赦なく男の浪漫をぶち壊してくれる。
「はぁ〜・・・本当に可哀相だよな、こんなに尽くしても信じて貰えないだなんて」
言えば言うほど胡散臭くなるとどうしてこの男は気付かないのだろう。どう取り繕ったって嘘しかないのに。
「どうしたら信じてくれるんだ」と、尋ねられたが返す余裕が無い。代わりに口から漏れたのは切なげな声。
なんて確信犯だ。「教えてくれないか?御主人様」。なあ、と、耳元で囁きかけるテノールに身体が震えた。
夜風に当たりながらぼんやりと月を眺めた。風邪をひかないように、と掛けられたジャケットは少し大きい。
人が来ない事が唯一の救いだと思った。気怠るさを拭えぬまま隣に腰掛けるエースに凭れ掛かっていた。
(あー・・・うん。ちょっと死にたい)
割と本気で思った
自身の凡ミスが元凶とは言え、結果的にエースに助けられる形となった。しかもかなり屈辱的な形で、だ。
忘れられたらまだ良かったが不幸にも忘れられない情事となったから最悪だ。思い出すだけで死にたい。
子供をあやすようにずっと頭を撫で続けるエースの手が更に憎らしい。だが抵抗する気も起きず甘受する。
ちらりとこっそり目を向けた。いつもより少しだけ機嫌が良くて、だけど、いつもとそんなに変わらない様子。
ふと、先の情事で囁かれた言葉が脳裏を掠める。どうしたら、か。あんな状態で答えられる筈が無かった。
否、たとえ平静であっても答えられたか、と、聞かれたら微妙だった。何を言っているのだろう、と、思った。
口先だけの「御主人様」という言葉に苛立ちを覚えた。狡い男だ、と。そんなこと微塵も思っていない癖に。
「・・・そろそろ会場に戻るわ」
服が汚れなかった事は幸いだ。否、エースとの情事の後に汚れた事は今まで一度も無かったのだけれど。
「アリスが心配するやろし」と、頃合いを見計らい口にする。不意に頭を撫でていたエースの手が止まった。
「・・・もう行くのか?」と、紅い目を向けられる。その視線から逃れるように目を逸らして立ち上がろうとした。
「好きだよ」
不意にそう告げられて足が止まる。もう一度エースに目を向けた。向けられる眼差しは先程と変わらない。
何を思っているのかまるで読めない瞳。自身のジャケットの内側で微かに拳を握った。やはり好かない。
「そ。・・・私、不毛なことって好きちゃうんよね」
「片思いごくろうさま」と、吐き捨てる様に言った。そして思い出したように手を打った。「ああ、それから」と。
その先は音にはせず口の動きだけで伝える。それが分からないほど彼は愚鈍では無いと知っているから。
彼がどこまで読み取れたのか知らない。が、小さく笑って「了解」と、答えたからには任せて大丈夫だろう。
そして――今度こそ振り返らずに会場へと足を進めた。
内側で蠢くものを振り払う様に息を吸った。そして思考を切り替える。これからすべきは何か。決まってる。
「もう!どこ行ってたのよ」と、会場に戻ると少し怒った風にアリスに声を掛けられる。それに笑顔で応えた。
アリスの傍らに居たのがブラッドで無かったことに内心舌打った。どうしてアリスを一人にしているんだ、と。
むしろ一人ならまだ良い。一番警戒するべき人物が傍に居たとなればいくら温厚なと言えども苛立つ。
「ごめんごめん・・・ブラッド達は?」
尋ねるとアリスは溜息混じりに「用事があるからって帰っちゃったわよ」と、言った。「勝手なんだから」、と。
本当に勝手な男だ。アリスに何かあったらどう落とし前付けてくれるのだろう。自分の惚れた女くらい守れ。
言いたい言葉は山のようにある。が、今はアリスの安全を確認出来ただけで十分。少し予定が狂ったが。
――その狂いを作ったのは自分だ。
「いやはや、突然姿が見えなくなったので帰ってしまったのかと心配していたんだよ」
JabBerWoCkyを招いた男が笑ってそう言った。そもそも、アリスを置き去りにして帰るわけがないだろうに。
それを適当にあしらってアリスに歩み寄る。「・・・そろそろ帰ろう」と、小さく耳打つ。長居するべきではない。
「ええ、ちょっと気分が優れなくて夜風に当たっていたんですよ」
「酔ったのかも知れませんね」と、貼り付けた笑顔のまま告げる。酔うにしても最悪な酔い方だとは思うが。
裏事情など知る由もないアリスは意外そうな視線をに向けた。まさか酒に酔うとは思わなかったのだ。
勿論、それが普通の酒なら余程ペースを乱さない限り醜態は晒さない。今回は例外的過ぎただけのこと。
「・・・大丈夫なの?」
気遣う様にアリスが尋ねる。それに対して誰にとは言わずに「介抱して貰ったから大丈夫」とだけ、伝えた。
その言葉に微かにだが男の顔色が変わった。すぐに持ち直す辺り流石と言えるがそれを見逃しはしない。
「というわけで、お気遣いなく」
「でも流石に疲れたので今日はお暇しますね」と、男に伝える。休んでいく事を提案されたが丁重に断った。
社交辞令での最低限の挨拶だけに留め場を後にした。これ以上、ここに居たら本当に堪え切れなくなる。
アリスの手を引いて足早に会場を抜け人気の無い廊下に出た。あの場所に一瞬でもアリスを一人にした。
「?」と、アリスに名を呼ばれて一気に脱力する。縋る様にアリスを抱きしめて「・・・ごめん」と、呟いた。
ブラッドが何を思ってアリスから離れたのか知らない。それに大元の原因を辿れば自分の迂闊さ故だった。
何事もなかったから良かったが、もし何かあれば取り返しが付かなかった。運が良かったとしか言えない。
「・・・誰と居たの?」
「ねえ」と、呼び掛けてアリスは尋ねた。先程の会話から、が誰かと一緒に居たということは分かった。
最初はエリオットかと思ったが、ブラッドが帰ると言った時、すぐにエリオットが現れたからそれは多分違う。
でも、他に会場内でが場を共有するのを許すような知人は居なかった。マフィアの集いだから当然だ。
そもそもは他人と場を共有することをあまり好まない。仮に酔っていたのならば尚更。警戒は強くなる。
だが、話を聞いている限りそうで無かった。帽子屋ではない誰かが酔ったに寄り添っていたということ。
「・・・エース」
アリスの質問には思巡した後、そう答えた。隠す事ではない。「エースが来てるの!?」と、驚きの声。
シッと人差し指で声を潜める様に促す。マフィア達の集まる場所でその名を大きく口にするものではない。
ハッとしてアリスが口を押さえた。そして声を潜めて「でもどうして?」と、尋ねる。ただでさえ迷子癖の男が。
「仕事だったわけじゃないんでしょう?」
と、言葉を重ねる。そんな伝達を出したところをアリスは見ていない。それに、出したとも聞いていなかった。
まさか極秘で出したのかと言わんばかりにを一瞥する。は緩々と首を横に振り苦笑を浮かべる。
「『飼い主に忠実なんだ』・・・やって」
そして皮肉る様に彼の言った言葉を伝える。アリスは一瞬、呆気に取られた様に目を丸くして黙り込んだ。
あの男が誰かに仕えるなんて想像出来ない。否、大人しく従うとすれば一人。寄る辺となっていた彼だけ。
だからこそアリスはエースがJabBerWoCkyの番犬になったと聞いた時、驚いた。声を掛けたのはだ。
だが、
エースがそれを受けるとは思わなかった。も駄目元で声を掛けたと言っていたが、それにしても、だ。
自分の役割に背き、時計屋の部下だったエースがユリウス以外の下に就くなんて。何の冗談かと思った。
だけどそれは嘘では無くて、今も自分の意志でわざわざ仕事でも無い場所に足を運ぶなんて意外過ぎる。
アリスはちらり横目でを窺った。いつもと変わらないが少しだけ。いつもよりほんの少し苛立っている。
何がどうしてそうもを苛立たせるのかは分からない。だけどおそらく原因はエースなのだろうと思った。
他の誰かに対してなら感情を剥き出したりしない。上手いようにコントロールしてかわすのがだ。
でもエースが相手の時だけそれが上手くいかない時がある。傍目で見てほんの僅かな違いでしかないが。
「あなたたち、まだ飼い主と番犬ごっこしてたの?」
「・・・呆れた」と、アリスが呟いた。それに対して、は心外だと言わんばかりにアリスに視線を向けた。
「私は別に・・・」と、口籠る。エースが言うからだ、と、ぼやくが売り言葉に買い言葉で、乗る方も乗る方だ。
「それは最初にが言ったからでしょう?」と、諌める様に返した。あの口説き文句だけは忘れられない。