番犬の登場により帽子屋ファミリーは一度出直すことを余儀なくされた。どうやら諦める気は無いらしいが。
仮設店舗に残されたのはエースとの二人だけ。はネクタイを緩めてやれやれとばかりに座った。
この狭い店内で武道派の連中が衝突したらことだ。否、そうなる前に強制的に御退場願うつもりだったが。


「・・・遅いわ」

淹れたての紅茶を飲みながら吐き捨てる。来るならもっと早く来たら良いものを何をちんたらしているのか。
以前と比べて減った書類に目を通しながら、自然と溜息が零れた。エースが直ぐ傍に近付いて来る気配。

「これでも急いだんだぜ?」

「ごめんごめん!」と、言いながら付け足す様にエースが言った。「・・・言い訳は要らんから」と、切り捨てる。
エースの迷子癖のことも一応考慮しているつもりだ。が、それでも遅れた事を考えるとの配分ミスだ。
ふと背後から回された腕がの手にあるカップを取り上げる。零れるのを危惧して諦めた様に差し出す。

「・・・自分のくらい自分で淹れぇや」

折角、気分良く飲んでいたのに。溜息混じりに皮肉れば「人のが美味しそうに見えるだろう?」と、返った。
気持ちは分からなくもない。だがやられる側からすればとんだ災難だ。新しいのを淹れようと立ち上がる。

が、

「ちょっと・・・!」。それを阻まれたら自然と不平の声も出る。睨むように視線を向けると相変わらず笑顔だ。
肩を掴んで座らせたと思いきや「まあまあ」と、よく分からない窘め。本当にこの男は喧嘩を売っているか。
まともに相手するだけ無駄だと幾度目かの溜息と共に足を組み直す。そして「・・・で?」と、用件を問うた。


「迷惑な客を追い払ったもう役無し?」

「それは酷いぜ」と、エースが不満を述べる。そもそも、帽子屋ファミリーが引き返したなら仕事は終わりだ。
番犬に求めるのは主に番。それが済めば特に用は無い。可愛ければ話は別だが目の前に居るのは騎士。
どう見積もっても可愛いと言う表現の似合う存在でない。「それ以外にどうしろと?」と、呆れた声が漏れる。

「ちゃんと仕事をこなした犬にご褒美くらいあっても良いんじゃないか?」と、灰手袋越しに頬を撫でられる。
(またか・・・)と、溜息が出そうになる。「・・・自分で犬って呼んで楽しい?」と、蔑みの眼差しと共に皮肉る。
「最初にそう呼んだのは君だぜ?」と、全くダメージを受けて無い辺りどうしようもない。微かに唇が触れる。


「・・・駄犬」

それが離れた瞬間、吐き捨てる。待ても出来ないなんてとんでもない駄犬だ。どうせまた要求してくる癖に。
のその言葉にエースは小さく笑った。今度は触れるだけで済ます気は無いのだろう。また重ねられる。
仕方なくそれに応える様に顔を上げてその首に腕を回して引き寄せる。エースの手がの頭を撫でた。


これがご褒美だなんて――随分と安い犬だこと。




クッション性は抜群だと言ってもやはり椅子の上は少し辛い。着崩れた服を整えて早々に離れようとした。
が、エースの腕はの腰を捕えたまま離そうとしない。「紅茶飲みたいんやけど?」と、気怠るげに言う。
それに対してエースは「俺も何か飲みたいな」と、いけしゃあしゃあ言う。ならさっさと離せ馬鹿と言いたい。


「なら、離してくれへん?」

「淹れるに行けへんにゃけど」と、向けられた漆黒の双眸は冷たい。しかし、エースは離すどころかごねた。
女子供がごねるならそれなりに見れたものだが大の男がごねても何も可愛くない。思いっ切り腕を抓った。

「ってぇ・・・、痛いって!」

容赦なく抓ったのだから当然だ。止めてくれとばかりにエースが懇願するが当然ながら離す気は無かった。
「ちぇっ・・・分かったよ」と、渋々離したエース。立ち上がろうとすると「」と、不意に呼ばれて振り返った。
唇を掠める様に何か触れ反応が遅れた。触れたものが何なのか理解した瞬間、顔に熱が籠るのを感じた。

「・・・盛んな馬鹿犬」

机に乱雑に置かれた書類の一つを手に取り、それをエースの顔面に打ちつける。間抜けな声が聞こえた。
短く吐き捨ててカウンターに向かう。気分としては紅茶なのだがこれから仕事が控えているのを思い出す。
気分をすっきりさせる為にも珈琲にした方が賢明かも知れない。手に取った紅茶缶を置き珈琲豆を取った。

「あれ?珈琲にするのか?」と、エースの声が聞こえる。「うん、エースは?」と、作業を進めながら尋ねた。
その答えはエースも珈琲で構わないとのこと。合わせてくれたのかも知れないが手間が省けて有り難い。

鼻腔を掠める香ばしい香りにふと時計塔に居た頃を思い出した。

こうしていつもユリウスに珈琲を淹れていた。はどちらか言えば紅茶派だが珈琲も飲めない事は無い。
だが基本的に誰かに淹れていた。そして誰かとは元の世界なら両親だ。珈琲は家族に淹れるものだった。
つまり、この世界でユリウス=モンレーとはアリス同様ににとって家族に等しい存在だったということ。
無愛想で卑屈で根暗で口下手。どうしようもない保護者だったことは否定しないがそれでも大切な存在だ。

(あれ・・・何でだっけ?)

ふと 思う

ユリウスが大切だ。もちろんこの世界の皆も、アリスのことも大切だと思っている。そう思うに至った理由。
それが上手く思い出せない。嗚呼そうか。ハートの国では散々世話になっていたから恩を感じているのだ。

――たぶん。

普段は無口で根暗で卑屈で無愛想などうしようもない人。だけど本当は面倒見が良くて心優しい人なのだ。
ユリウス=モンレーは。何だかんだ文句を言いながらアリスとを引き受けてくれたことが何よりの証拠。
開店して右も左も分からない頃は随分と世話になった。なかなかにスパルタだったのはほろ苦い思い出。


「はい、どうぞ」

と、マグカップに淹れた珈琲を差し出す。舌の肥えたハートの騎士の口に合うかは甚だ疑問なのだけれど。
それに「ありがとう」と、礼を告げてエースが受け取る。空いてる椅子を適当に引き寄せても腰掛けた。
舌先を刺激する苦味に少し眉を顰める。が、それも自然と溶けて舌先に本来の味が広がる。まあ悪くない。

「これから仕事?」

と、不意にエースが尋ねた。それに対して小さく頷く。直ぐにというわけではないが、何れは向かう予定だ。
一度、塔に戻ってシャワーを浴びなければ流石に気持ち悪い。時間を置いたら元通りになるとしても、だ。

「アリスは付いて来る気マンマンみたいやけど・・・」

自然と溜息が零れた。依頼人の誘いでマフィアのパーティーに呼ばれているが、正直連れて行きたくない。
挨拶まわりをするだけで危険なことは特に無い。とは言え、やはりアリスに踏み込んで欲しくない場所だ。
「アリスって結構頑固だよな」と、エースが笑った。否定はしない。が、他人事でないだけに非常に厄介だ。

「・・・で、番犬は不要?」

と、何を狙っているのやら、悪戯染みた目を向けられて「不要」と即答する。「ちぇっ」と、唇を尖らせ拗ねた。
「だから可愛くないって」と、呆れ交じりに言った。パーティー会場に元・時計屋の部下を連れては行けない。

騒ぎになったら厄介だ。そもそも今回、帽子屋にJabBerWoCkyが番犬を飼っていること知られたのだって。
としてはあまり望ましいことではない。エースは強い。十分過ぎるほどの牽制になることは知っている。
だがそういうことではない。元・ハートの騎士。元・時計屋の部下。これ以上、曖昧な立場にさせたくない。


「必要なら呼ぶ。それまでは好きにしといて」

珈琲を一口含んでそう告げた。クローバーの国には時計塔は存在しない。彼の戻るべき場所は城だけだ。
JabBerWoCkyの番犬は、元・ハートの騎士が時が巡って再び時計塔に会うまでの仮初の役割でしかない。
はこの場所にエースを縛り付ける気など毛頭無かった。エースの視線を感じたが無視を決め込んだ。



「アリス。よく似合ってるやん」

黒いドレスを纏ったアリスを見ては感嘆の声をあげた。少女らしい会合服とは打って変わり大人の女。
本人はパンツスーツを希望したがの我儘を貫いてドレスにして貰った。両方ともパンツでは味気ない。

「・・・何だか素直に喜べないわね」

「貴女もドレスにしたら良かったのに」と、どこか腑に落ちない表情でアリスが言う。は笑顔で応えた。
ドレスは人を選ぶ代物だ。目の前にとてもよく似合う美女が居るというのに自分が着る必要性を感じない。
かくいうは完全なるパンツスーツ姿だ。ネクタイでないのはせめてもの柔和さを出すために過ぎない。

「機会があれば、ね?」

機会があれば、ということは、今後その予定がない事を指す。それを察したのかアリスが溜息を漏らした。
「行こうか」と、促されてそれに従う。今回は危なくないと思うが絶対に傍を離れないでと妙に釘を刺された。

クローバーの国に来てからのはよく分からない。JabBerWoCkyに携わるのをあまりよく思っていない。
危険から遠ざけようとしてくれているのは分かる。しかし、代わりに自らがそれに近付いているような錯覚。
それをナイトメアに相談した時、少し考え込んだ後に「不器用な子なんだ」と、フォローするように言われた。

が不器用なのは知っている。

それこそユリウスと大差ないほどに不器用だ、と。優しい癖にそれを隠そうとする。悪ぶろうとする悪癖だ。
否、本当は優しいのに自分は優しくないと言い張るのだ。頑固というか意地っ張りというか、何と言うのか。
ユリウスが居なくなってから、は少しだけおかしくなった。理由は分からないがずっと焦り続けている。

クローバーの国で再会した時からそれは気付いていた。今までになく余裕がないと薄々は気付いていた。
それを隠す為に仕事に躍起になっていることも知っている。そして今度はエースを雇うと言い出したのだ。
確かに抗争の多いこの国は女だけで店をするには物騒だ。が、エースはハートの騎士でユリウスの部下。
そんな彼を更なる違反させてまで招き入れる意図が分からない。それを受け入れたエースの考えだって。


(知らないことだらけね・・・)

ぼんやりと星空を見上げる

一定の間隔で変わる時間帯も、そこに居る住人もある程度は同じなのにこの国はまるで別の国みたいだ。
知らないことがあまりに多過ぎて息が詰まりそうになる。アリスはぼんやりと隣を歩く少女に視線を向けた。

のことだってそうだ。ずっと一緒に居る、と言ってもまだ1年程しか一緒に居ない。知らないことだらけ。
今だって胸の内を疑問にして尋ねることさえ出来ない。きっと拒絶はされない。でも気安く聞けない距離感。
少しだけでも良い。友達としてに近付いてみたいと思う。アリスは小さく息を吐いての手を繋いだ。


「・・・アリス?」

最初は少し驚いた様な顔をしていたがは別に振り払おうとはしない。横顔は少しだけ嬉しそうだった。
これから仕事に向かうというのに何と暢気な空気。だけど少しでも長くこの時間が続いて欲しいと思った。



その犬、貪欲につき

[2013年4月20日 脱稿]