与えられた部屋で粛々と手習いの練習を続けていたが、一刻半も続くとなれば流石に疲労を覚えるだろう。
紙に書かれた文字が段々と蚯蚓が這っているようにしか見えない。溜息を零して筆を下ろす。象形文字だ。

読むに堪えない文字――なんて屁達筆。

それにしても、手習いの練習を言い渡して部屋を出て行った半兵衛は一体どこへと行ってしまったのだろう。
「少し抜けるよ」と、爽やかに言い残して完全なる放置プレイである。沈黙の中で長時間の集中は持たない。
気分転換にお茶でも頼もうかと席を立とうとしたがへたりと座り込む。不覚だ。長時間の正座に足が痺れた。


(手習いなんて・・・)

歯噛みする

現代でいうところの習字だが、はあまり得意ではない。まずわざわざ文字を筆で書かなくても良いのに。
鉛筆でいいじゃないか。書き辛い事この上ない。文句を挙げればキリがないが、この時代の執筆は毛筆だ。
偶然とはいえトリップし、身分を持ってしまった以上、筆で書けないといけない。だから練習しているのだが。


「・・・・・もうやだ」

がっくりと項垂れて呟く。集中力は完全に途絶えてしまったし、長時間の正座による足の痺れも重なり辛い。
他人の目が無いことを良いことに行儀が悪いのは承知で寝転がった。どこぞの世話役に見られたら大変だ。
が、疲れたものは疲れた。疲労回復を図るなら休憩に限る、と、開き直って結論を付けて、思う存分に寛ぐ。

――不意にぼんやりと天井を仰いで、本日幾度目かの溜息を零した。


今の立場は織田信長の養女である。詰まる話、姫。とてつもなく不似合いな立ち位置だとは分かっている。
が、与えられてしまった以上は家名を傷付けぬよう最低限の教養を身に付け、らしく振る舞わねばならない。
手習いの練習も謂わばその一環。実際、信長は煩くは言わない。むしろ世話役の方が喧しいくらいである。

信長がなぜに興味を持ったかは分からないが、取り繕った姿よりもあるが侭で良いと言った物好きだ。
流石は尾張のうつけ。とは言え、恩がある手前、それなりに頑張って来たつもりだ。が、得手不得手はある。
不慣れな事を長時間するのは疲れる。そんな時に、ふと想いを馳せるのは此処に来る以前に居た場所だ。

――中国・安芸の地。

そこを納める毛利元就は右左も分からないを拾ってくれた。短期間ではあるが居場所を与えてくれた。
織田と毛利の同盟の証としては差し出された。そして、運良く信長にも気に入られて今の位置に在る。
今の生活に不満があるわけじゃない。思えば、存外丁寧な扱いを受けている事を分からないわけではない。
身分不詳の小娘の待遇にしては上等。不満があるわけじゃない。だが、それでも馳せるのは居場所だから。


(元就さんどうしてはんのかなぁ・・・)

ふと 思う

時折、文を出してくれるが、その字はあまりに達筆過ぎて読めず、世話役に読んで貰うが彼も苦い顔をする。
人に五月蠅く言う割に自分も読みの方があまり得意ではないじゃないか、と、内心思った事は否定しない。
話が逸れたが、耳に入る噂で察するに息災の様だ。まあ滅多にそうでない場合なんて訪れないのだろうが。


「・・・手習いは教わっても恥じらいは教わらなかったのか」

ふと頭上から呆れた声が降って来る。声の方向には寝そべったまま視線だけを向けた。緑色の着物。
聞き慣れた声。何時の間にやら開け放たれた障子。その三つに無意識に頬が緩む。ゆっくりと口を開いた。
「声くらいかけてくれてもええやんか」。どうして、此処に。そう言葉にするよりも先に零れたのはその一言だ。

「お久し振りです、元就さん」

理由は分からないが、会いたいと思っていたら現れるなんて偶然にしても出来過ぎ。嬉しい気持ちが募る。
その言葉に元就は小さく鼻を鳴らすとの傍に近付いた。直ぐ傍らまで来たかと思いきや、小さな衝撃。

「あいた・・・っ!」

どこから出したのやら若草色の扇子で軽く叩かれる。「・・・仮にも織田の姫であろう」と、容赦なく窘められる。
いつまでも無防備に畳に寝転がるに見かねたのだろう。久し振りに会った割には相変わらず容赦ない。
とは言え、そんなに痛くは無いのだが。足の痺れも段々と薄れて来た。弾みをつけて一気に起き上がった。

「一向に文を返して来ぬと思っておれば・・・・書きの練習をしておったのか」

語尾に「今更な」と、付けられている気がした。確かに貰った文になかなか返事を書けないでいたのだけど。
小馬鹿にするというより、呆れ要素が強い。空いている座布団を引き寄せると元就はの隣に腰掛けた。
墨が半乾きの半紙を手に取ってそれに視線を落とす。ほぼ集中力が切れかけの時だから一番酷い出来だ。

「どうせヘタクソですよーだ」と、諦めたように吐き捨てて視線を外した。どうせ馬鹿にされるに決まっている。
だが苦手なものは苦手なのだから仕方ない。書道家や昔の人達を今なら心から尊敬出来る様な気がする。

――こんな書き難い物を使ってよくも文字が書けるものだ。


「これでは文も返せぬ筈だな」

沈黙の間はフォローの言葉を考えているのだろうか?なんて一瞬でも甘い考えをした自分が馬鹿だと思う。
遠回しに皮肉られるかと思いきや何のその。ストレートに下手糞だと言われるとは流石に思いもしなかった。

「しゃーないやんか!現代っ子は筆なんて滅多に使わへんにゃから」

どこの駄々っ子だと言われそうな発言が零れる。だが実際に現代人が筆に触れる機会なんて限られてる。
授業の一環、若しくは職業柄、正月くらいにしか使わない。慣れないものが扱いづらいのは当然の事だろう。
それを難なく使いこなせる人は器用なタイプなんだと思う。少なくともはその器用なタイプには属さない。

「・・・人には得手不得手があるものぞ」

どうあってもフォローする気は無いらしい。呆れた様にそう口にして元就は乱雑に放置された筆を手に取る。
「今宵は七夕・・・手習いの上達を祈願する日よ」。そう言いながら、新しい半紙につらつら文字を書き綴った。
相変わらず達筆なその文字を読み取ることは出来ない。和歌だろうか。疎いのもあってさっぱり分からない。

「今日って七夕なんですか?」

ふと思い出したように口を開く。こちらに来てから時の流れにあまり頓着しなかった所為で気付かなかった。
「てか七夕ってそんな行事やったん?初耳やわ」と、呟いた。文字の上達を祈願する日だなんて初耳だった。
それを聞いた元就はを一瞥した後、本日幾度目かの溜息を零した。そんなに呆れる様なことだろうか。

七夕と聞いて最初に浮かぶのは七夕伝説。織り姫と彦星の物語。あとは、笹に短冊を吊るしたりするくらい。
元就曰く、その起源は五色の短冊に唄や字を書いて飾り、書道や裁縫の上達を祈願するものなのだとか。
トリビアである。否、豆知識というか。そもそも七夕自体を一つのイベントとして捉えたことがあまりなかった。
七夕といえば、毎年雨天か晴天かで友人と賭けをした覚えしかない。因みに賭けたのは学生らしく菓子だ。

――ちなみに、雨天率が高い。


「・・・祈願したところで成すのは所詮、己よ」

努力しない者に実りは無いということだ。書き終えた半紙を綺麗に半分に破り捨て、筆をに差し出した。
だから要するに書いて書いて書きまくれと言いたいらしい。反応に困ったが突き返すわけにもいかなかった。
渋々と受け取った。半兵衛も大概のスパルタだが、元就はそれ以上にスパルタだったのは言うまでも無い。


(でも、まぁ・・・)

頬が緩む

こうやって過ごす時間は安芸に居た頃を思い出して懐かしい。こんな風な時間を過ごすのも案外悪く無い。
ただ隣で呆れた溜息を零すのと、容赦無い言葉を投げ掛けるのは止めて欲しい。そろそろ心が折れそうだ。


ミルキーウェイ
(たとえ二人を別っても絆は別てない)



「今年の七夕は雨かなぁ・・・彦星と織姫も天の川が増水して大変やなぁ」

ぼんやりと霞む空を仰いで呟いた。毎年思うのは、どうして七夕の時期には高確率で雨天なのかということ。
織姫の父、天帝は会わせる気が絶対無いと思う。どうでもいい事を考えながら部屋の中の人の返事を待つ。

「増水程度で情け無い・・・・たかが数間の距離くらいとび越えれば良かろう」

何てことの無いようにさらりと紡がれた言葉に目を丸くする。確かに尤もな言葉だとは思う。思うのだけれど。
「えーっと・・・どこまで本気か知らんけど、普通の人はムリやと思う」と、肩を竦め笑う。「軟弱な」。一刀両断。
決して彦星が軟弱なわけではなく、天の川を飛び越えるという発想の元就が規格外なのだ。鵲もさぞ涙目。

「でもまぁ・・・うん。なりさまの織姫さんは幸せもんやねぇ」

飛び越えてまで会いに来てくれるなんて、待つ身からすれば幸せだろう。からかうように笑いながら言った。
ら、何が気に入らなかったのやら睨まれた。慌てて「冗談です・・・!」と、前言を撤回する。目が本気だった。


隣で丸くなって眠るひのわの頭を撫でながらぼんやり庭園を眺める。片隅の短冊が吊るされた笹が映った。
笹が用意されたのはが毛利を訪れてから。久し振りに願い事とやらを書こうとしたが上手く浮かばない。

今年の七夕を安芸で過ごそうと思ったのは気紛れだ。ふと、昔の七夕を思い出して懐かしんだに過ぎない。
風来坊のように諸国を漫遊しているの突然の来訪に元就は呆れつつ昔と変わらず招き入れてくれた。
とは言っても、皮肉られたのは言うまでも無い。七夕の話題を出して暫くすると、庭先に笹が置かれていた。


商売繁盛――

と、何となく手に取った赤い短冊に書いて吊るした。気付いたらどこまでも商魂立派になったものだと失笑。
その横に元就が書いたらしい白い短冊が吊るされている。二つ並んで紅白。めでたいと言えば、冷めた目。
冗談のつもりで言ったのに可哀相なものを見る目は止めて欲しい。何年経ったとしても変わらない遣り取り。


時と共に変わってしまったこともある。関係性であったり、居場所だったり。気付けば、時間に流されていく。
瞬く間に過ぎ去っていく時の流れと移りゆくものを見て不変なんて存在しないと思っていた。変わってしまう。
実際にも変化し、周囲も随分と様変わりした。どんなに願ったところで時間は決して留まってくれない。

それでも――変わらないものがある、と、此処に戻って知った。

安芸は、元就は変わらない。いつだって、出会った頃と変わらずに接してくれる。居場所で在り続けてくれる。
変化を望まないにとって安らぐことが出来る。やはり此処は第二の故郷だ。だから気紛れに戻ってくる。
言葉で「戻ってきて良い」とは言われない。それでもふらり立ち寄れば元就は結局いつも受け入れてくれた。


だから、


「・・・・・進歩のない娘よ」

ふと会話が途切れた事に気付いたのか元就が視線を上げる。そして縁側で庭を眺めるに目を向けた。
柱に寄り掛かって寝息を立てていた。何時の間に移動したのだろうか膝の上にはひのわが暖を取っていた。

呆れたように読み掛けの書物を置くと立ち上がった。仮にも姫として養育されていた者のする行動ではない。
まるで子供のように無防備な寝顔を晒すに息を吐く。未だ文月とは言え夜だ。夜風に長く当たると障る。
もういちど息を吐くと元就は近くの羽織を手繰り寄せて起こさぬ様にそっとかけた。そして隣に腰を下ろした。



変わらない関係、変わらない想い。

[2013年10月8日 再録]