優しい嘘か、残酷な真実。どちらか選べと言われて後者を選ぶ者もいる。目を逸らしてはいけないから、と。
結構なことだ。少なくとも彼女はその瞬間を迎えて知らなければ良かったと心底思った。知りたく無かった。
分かっている――彼もまた、野心家だから。
可能性をどこかで薄々と感じていた。そんな日がいつか訪れるのだろう、と、薄ぼんやり想定は出来ていた。
とて伊達に姫をしているわけではない。しかも武家の姫ではなく、彼の第六天魔王織田信長の養女だ。
その類の者を見極める目は十二分に培われているつもりだ。が、出来るならば杞憂で終わって欲しかった。
だが現実とはかくも非情なもの。あっさりと残酷な真実が突き付けられた。それを耳にしたのは偶然だった。
「・・・遂に決意したんだね」
障子を隔てた部屋の中から声が聞こえる。無意識に気配と息を殺しては耳を澄ませた。覚えのある声。
否、覚えがあるなんてものではない。その声はきっと誰よりも近くに居たあの人のものだと嫌でも分かった。
それに対して秀吉は神妙な声で「日の本は強く在らねばならぬ」と、紡いだ。その言葉に思わず顔を顰める。
彼の唱える『強さ』には共感することが出来ない。豊臣秀吉の凶行は風の噂だが既に聞き及んでいる。
正室たる女人を殺害したんだ、と、悔しげに語ったのは風来坊。男の涙を見たのはあの時が初めてだった。
それを見て遣る瀬ない気持ちが募った。同時に秀吉に対して強い疑念を抱いた。秀吉が嫌いでは無かった。
が、――彼の目指す強さが分からない。
どちらか言えば口下手で不器用だが、優しい秀吉が好きだった。大柄な身体に反して優しい心根の持ち主。
秀吉が代わった理由は分からない。それを知るには慶次と違って、は遠い距離に位置していたからだ。
彼には彼の目指す場所があるのだろう。だからこそ何も知らないが不躾に口を挟む真似は出来ない。
しかし、だ。彼の唱える『強さ』には共感できない。何故ならば、それはの信じる強さとは異なるからだ。
「助力するよ。存分に利用すればいい」
「秀吉の築く日の本を見てみたいんだ」と、その言葉に虚を突かれ音を立ててしまった。しくじったと思った。
立ち上がる気配。気付かれたと焦るより先に茫然とした。逃げるべきなのに足は一向に動こうとしなかった。
否、そもそも逃げる気は無かった。要素も、必要性も無い。だって自分は何も悪い事をしていないのだから。
――謀反を企てたのは彼らだ。
「・・・盗み聞きとはよく無いね、姫」
障子を開いたのは半兵衛だ。部屋の奥には座卓の上に無造作に広げられた書物の一つに目を通す秀吉。
本来なら挨拶くらいはするところだが、は秀吉に目を向ける事無くただ半兵衛を見上げた。目が合った。
別に半兵衛が秀吉と共に謀反を企てていたことがショックなわけじゃない。いつの時代にもそれは存在する。
それに今は群雄割拠の戦国時代。誰が天下を目指そうとも不思議じゃない。だからあり得ない話ではない。
だからそれに関してではない。いつもは名前を呼ぶその口から一線を引く呼び方をされたのが衝撃だった。
ぼんやりと自分を見据える瞳に半兵衛は僅かに目を細める。いつか訪れることは知っていた。別れは必然。
気付いていた。秀吉は信長を尊敬しているが、目指す未来は全くの別物なのだ、と。前から知っていたのだ。
半兵衛は友である秀吉を支え、は織田の姫として信長を支える。だから二人の道は決して交わらない。
そんなこと、ずっと前から理解していた。
「壁に耳あり障子に目あり。人目に付く場所で密談なんかする方が問題やろ」
いつもと変わらない冗談染みた口調。別に盗み聞いたわけではない。ただ聞こえただけ。聞こえてしまった。
聞きたくなんて無かったのに。声が震えないようにと、確かに動揺を覚えてしまった心を誤魔化す様に笑う。
誤魔化そうとするのに反して心がごねる。それを堪えるようは着物の裾の内でそっと拳を握り締めた。
「密談をしていたつもりはないよ」
その口から漏れたのは呆れた様な溜息。そして「中へ」と、誘われる。そして言われた通りに部屋へ入った。
不用心だと常なら宥められるのだろうが、今はそれを窘める者はいない。すべき彼がそれをしたのだから。
口封じの可能性は低い。何故ならば、何れは明るみに出るであろう話だからわざわざ隠す意味がない。
それに、
相手が悪い。一兵卒ならまだしもを口封じすれば織田を始めとした同盟国らを確実に敵に回すだろう。
幾らこれから独立する身とはいえ、同盟国らを相手取るには時期尚早過ぎる。決して良策だとは言えない。
だとすれば――部屋に招く意図は何か。
「・・・・・どうするつもりだ?半兵衛」
不意に傍観に徹していた筈の秀吉が問う。その声に呼応しても顔を向ける。始めて二人の目が合った。
冷たい瞳。何時の間に秀吉はこんな目をするようになったのだろうか、と思った。前は違った。以前はもっと。
もっと――
(・・・やめよ)
振り払う
今しかない。過去を頼っても無駄だ。今在る姿は他でもない秀吉なのだ。もう戻れないとは知っているから。
知っているけど、納得できない。出来ないけどせざる得ない。口を開き何か言い掛けたがふと口を閉ざした。
秀吉を責めるのか?否、彼の決断を否定する気は無い。正しく無いと思ってもそれが秀吉の選んだことだ。
でもね、
大切なものを傷付けてまで求める強さって何?
掛け替えのないものを自らの手で壊してまで得られるものって何?
きっと慶次は止めた筈だ。それでも凶行を止める事は出来なかった。だからあの時、慶次は悔し涙を零した。
は秀吉が狂気に至った理由を知らない。正室を手に掛けた刹那の心理を理解することは出来ない。
そして、それを止めなかった半兵衛の心も分からない。分からないことばかりがあまりに多く困惑していた。
だが、これは断言出来る。秀吉の求める強さに共感は出来ない。それが強さだとは認められなかった。
現代っ子の甘い考えだと言うならそれでも良い。強さは手の中に在るものを棄てて得られるものではない。
だから自ら壊した秀吉に共感できない。否定はしない。だが、そんな秀吉に付いて行こうとは思えなかった。
「これから気紛れ猫を篭絡しようと思ってね」
「僕に任せてくれるかい?」と、後ろ手で障子を閉めた半兵衛が残酷なまでに穏やかに微笑んでそう言った。
その言葉に秀吉は「お前に任せる」と吐き捨て、興味を失くした様に読み掛けの書物を片手に立ち上がる。
「感謝するよ、秀吉」と、半兵衛は部屋を立ち去ろうとする秀吉の背中に投げ掛けた。そして障子が閉まる。
残された半兵衛との間に沈黙が流れる。ふと半兵衛はに視線を向けた。警戒しているのは明白。
先程から一度も視線を合わせようとしない。表情はいつも通りで涼しい顔をしているが、相当緊張している。
確実には半兵衛に対して警戒心を募らせていた。それは、半兵衛の真意が読めないからに相違ない。
はマイペースだが、決して頭の回転が鈍いわけでない。どちらか言えば早い方。聡明な女子だと思う。
自らの置かれた状況は混乱したとしてもそれなりに理解はしているのだろう。だからこそこの警戒っぷりだ。
相手が武人ならまだしも相手は知略に富んだ戦国屈指の知略家。下手打てば本当に籠絡されかねない。
それを危惧して気を張っている。表面上でその緊張を察するのは難しいが付き合いが長ければ容易いこと。
「きみの能力は高く評価しているんだ」
息を吐いて一拍。半兵衛は静かにそう言葉を紡いだ。気紛れ猫の力があれば天下取りも随分と楽になる。
それは歴然たる事実だ。湯ぶる様に投げ掛けられた言葉に僅かに肩を揺らしては半兵衛を見据えた。
「・・・それって勧誘?」
レンズ越しに映る漆黒の双眸が訝しむように細められてが問う。「そうかもしれない」と、さらり返される。
その言葉に今度こそは眉を顰めた。否、それ以前に何を意図しての言葉か、思惑がまるで掴めない。
釈然としない気持ちのまま半兵衛の言葉の続きを待った。何か言われたとしてもそれに乗ることは無いが。
「きみが望むなら・・・歓迎するよ、気紛れ猫」
フッと微笑んで半兵衛はそう言う。言葉を理解するのが遅れた。だが理解した瞬間、表情は驚きに染まった。
大きな目がそのまま零れ落ちそうな程に見開かれる。そして次第に表現し難い表情を浮かべて眉を顰めた。
「・・・・・趣味悪いわ。わかってるくせに」
そして吐き捨てるように言った。最初から分かり切ったことだ。は決して織田を離れることは出来ない。
国間の盟約もあった。一つの国に二匹ものねこは存在できない。安芸を離れねばならなくなった決定打だ。
だがそれだけでない。盟約もあったが、それ以上ににとって此処は掛け替えのない場所になったから。
離れられない。まして、裏切るなんて真似は絶対に出来ないし、したくもない。半兵衛なら分かっている筈だ。
おそらく織田に居る間、誰よりも長く一緒に居たのは半兵衛だから。彼は師だ。数多の知識を与えてくれた。
そんな彼がの性格を把握できない筈無い。懐に入れた"身内"に対して甘いことも理解しているだろう。
だからこその勧誘だろうか。ぞわりと背中が粟立つ感覚。試されているのだ。が織田を裏切るか否か。
――見定められている?
「もちろん承知の上だ。きみは織田を裏切れない・・・違うかい?」
「ただしその場合、今後は敵同士になるけどね」。言葉が鋭い刃となって容赦なくの胸に突き刺さった。
段々とはっきり言葉が拾えなくなってきた。流れていく。動揺しているのだと漸く気付いた。半兵衛の言葉に。
どうしようもなく――動揺している。
「敵同士・・・」
不意に零れる。どうしても実感が沸かなかった。だって、半兵衛はずっと傍に居たから。叱られる事もあった。
一緒に笑ったり、呆れられたり、宥められたり。一見穏やかで優しそうに見えるが、案外意地悪であったり。
記憶をどう遡ってみても自分と半兵衛が敵同士になるという実感がどうしても湧かない。そういうことなのに。
半兵衛を選ばないということは、つまりそういうことだ。もう一緒には居られないし、教えを請う事も出来ない。
笑い合う事も、呆れられる事もない。当たり前の日常が失われる。半兵衛が居ない。分かっていたつもりだ。
だけどつもりだった――。
「二つは選べない――・・・それは教えたね?」
ふわりと頭に触れた温もりを茫然と甘受する。酷く優しい物言い。いつもと変わらないのに、この距離さえも。
縋る様に顔を持ち上げは半兵衛を見つめた。が、半兵衛は少しも笑って無かった。僅かに目を細める。
嗚呼――どうして、
僕は残らず愛すでしょう 君を壊したあの夏さえも
(そのこたえにもう戻れないと思い知った)