自分が生を受けた環境は、きっと世間一般でいうところの絵に描いたような幸せな家庭そのものなのだろう。
充たされた環境の中で育まれた精神は健やかで清いものだと言われる。が、実際はそうとは限らないもの。
幸福な環境に生まれていようと、如何に恵まれていたとしても。正常で満たされた精神を持った子に成るか。
答えは否だ。
いつだって、足りない"何か"を追い求めている。くだらない日常にうんざりとしながらも"何か"を待ち続けた。
日常ではなく、非日常の中に探しているものがあるんじゃないかと思っていた。思うことで気を紛らせていた。
「ほら、起きなさい」
微睡みの中でぼんやりと声が聞こえた。そして軽く体を揺すられる。それに眠気声で応えるがまだ夢の中。
朝の極端に弱いにはおそらく意味を成さないのだろう。完全に目が覚めるまではもう暫く掛かりそうだ。
壁に掛かった時計を一瞥して溜息を漏らした。寝起きの悪いを起こすのに手を焼くのはもはや日課だ。
最終的に諦めたのか、階段を下りていく気配がした。それを感覚的に察しながらは再び夢現を流離う。
それから完全に覚醒するまでに要した時間は約30分。危険な時間帯に突入した途端に慌しい音が響いた。
上の階からバタバタと足音が鳴り響いた後、身支度を整えて制服に着替えたがリビングに姿を見せた。
「ちゃんおはよう」 「ん。おはよー」
顔を洗ってもまだスッキリとしないのか、椅子に腰掛けたは朝食を用意してくれた母親に生返事を返す。
「朝食なにー?」と、マイペースに尋ねればパンの焼ける香ばしい匂いがする。「パンとコーンスープだよ」。
ニュースを見る傍ら朝食を食べていた父親がそう答えた。朝はあまり食べないとしてはちょうど良い量。
「お姉ちゃん今日帰ってくるよ」
「だから今日は早く帰っといでね」と、朝食を運んできた母親が皿をテーブルに並べながらそう口を開いた。
姉の千尋は大学生で一人暮らしをしているが、夏季休暇に入ったらしく帰省するのだとか。唐突な報せだ。
こちらの都合をまるっと無視した随分と勝手な話だ。が、それを聞いて嬉しいと思っていることは否めない。
「え〜っ!今日は久々に
朝と
夜に会うんやし、無理やって」
とは言え、流石に前からある約束を変えられないだろう。その日は中学時代の友人と会う事になっていた。
それぞれ別の学校に進学したから会える時間が減り、今日は数ヶ月振りに会おう、と言う約束だったのだ。
とはいえ、ささやかな反論をしてみても最終的には「・・・夕飯までには帰るわ」と、折れてしまう自分が居る。
何だかんだで結局は姉の帰省が嬉しくて堪らないのだ。心躍るとはまさにこのことを言うのだと密かに思う。
家族と集団生活を強いられる学生生活と、まだ狭い人間関係の中に居たにとって家族は主軸だった。
だからこそ何やかんや甘やかしてしまうし甘えてしまう。勿論、数少ない親しい友人もそれに等しいのだが。
きっと――は、恵まれた子供だ。
だけど恵まれた『今』だけではどうにも満足できなかった。確かに幸せなのだろうけれど。それでも足りない。
その足らない部分を埋めようと渇望するから満たされなかった。満たされないからこそ心がそれを渇望する。
仮に求め、手に入れた先に喪失しかないと理解していても求めずにはいられない。何よりも大切だったから。
「あ、すみません・・・!・・・大丈夫ですか・・・?」
久し振りに会った友人と馬鹿騒ぎしながら道を歩いていた。ら、余所見していたのが悪かった。ぶつかった。
ハッと我に返って謝罪の言葉を紡ぎながら顔をあげただったが、ぶつかった相手と不意に目が合った。
――綺麗な
女性だ。
アッシュの髪に特徴的な口元の黒子。象牙の肌にすらりと伸びたしなやかな肢体。容姿に一瞬、惹かれる。
とは言え、余所見をしてうっかり衝突したのだからいつまでも見惚れているわけにはいかない。謝罪を紡ぐ。
するとその女性は目を丸くしていたもののすぐに表情を緩めて「こちらこそごめんね、大丈夫?」と、言った。
流石にちょっと当たった程度で怪我をするほど軟弱ではない。それに愛想笑いを浮かべ「大丈夫」だと返す。
彼女が流暢に話すのは標準語。だと思ったが、そこに微かに訛りが混じったのをは聞き逃さなかった。
「地元の方ですか?」
無意識にそう尋ねたに女性は首を傾げたものの、すぐに意図を理解したのか小さく笑いこくりと頷いた。
「今、帰省しているところなんだ」と、返される。その言葉遣いに何となく紳士的な印象を受ける。女性だけど。
ノリが良いというべきか、名前も知らないその人と短時間だが妙に話が弾んだ。ほんの数分にも満たない。
「」
不意に友人がを呼ぶ。そろそろ行こうということだろう。確かに引き留めてしまった気がしないでもない。
「あ、ごめんね。お友達待たせちゃった?」と、その人は小さく謝罪を紡いだがむしろ謝るべきはの方だ。
ぺこりと頭を下げ「ありがとうございました」と、相手してくれたのといろんな意味を込めて礼の言葉を述べる。
そして踵を返した。
「あ、ちょっと・・・!」
が、刹那、女性に呼び止められる。何事かと振り返ったを女性は真っ直ぐに見つめていた。真摯な
瞳
。
首を傾げただが女性は相変わらずを見つめていた。何と無く気まずいが不思議と言葉が出ない。
少し離れた場所で、友人達が不思議そうにこちらの様子を見ていることが分かった。が、どうにも動けない。
「あの・・・どうしたんですか?」
何か用でもあったのだろうか。不自然に止められたその続きの言葉を待つようには女性にそう尋ねた。
女性も何故呼び止めたのか無意識の行動だったらしくどこか戸惑っている様に見えた。が、声に反応する。
「あ、いや・・・何でも」と、女性はまるで取り繕うように微笑んで見せた。あまりにも不自然な行動だと思った。
が、相手がなんでもないと言うならばそこから先はに追求する権利は無い。そもそも赤の他人である。
名前も知らないし次に会えるかどうかさえも怪しい。そんな相手を引き止めることも追求するのもおかしい。
もちろん思うところはあるが、それ以上、関与はしない。「そうですか」と、愛想笑いを添えて小さく会釈する。
そして今度こそ場を去ろうとした。ら、不意に「ちゃん」と名前を呼ばれた。思わず反射的に振り返った。
「また、縁があれば・・・」
おそらく夜が紡いだ名が耳に残っただけだろう。彼女はふと微笑んで唯一言、そう告げた。縁があれば、と。
この広い世界で名も知らない相手と再び巡り会える可能性は低い。それも行動範囲が違うならなおさらだ。
それでも彼女は「また」と、言った。社交辞令と取るには無理を感じる。ならば何故、彼女はそう言ったのか。
だが関与はしない。その言葉には小さく笑って見せた。そして、随分待たせてしまった友人の元に走る。
「遅い!」と罵る友人の隣に並んで軽い調子で「ごめんごめん」と、謝れば、冷ややかに突っ込まれる。酷い。
とは言え、この扱いも友好の証だと考えれば可愛いもの。発される言葉に笑いながら目的地へと向かった。
遠ざかっていく背中――それを彼女はただ見ていた。
「ってなワケでごめんな。今日ははよ帰らなアカンのよー」
「うちの鬼姉がさー!」と、冗談交じりに両手を合わせて謝りながら、先に切り上げることを夜と朝に告げた。
二人ともしょっちゅう会えるわけではないから、正直言うと名残惜しい。そう思っているのは皆同様だと思う。
それにこの約束はずっと前からしていたものだ。厭味の一つでも言われても仕方がないと覚悟もしていた。
が、
「・・・別にいいけど、顔ユルみ過ぎ。キモいわ」 「お姉さんによろしく伝えてなー」
姉の帰省が余程楽しみなのだろう。珍しく、完全に緩み切ったの顔に二人は呆れ半分に言葉を返した。
彼女がシスコンである事は知っていたがここまでとは。呆れも混じったが、何とも微笑ましい気持ちになる。
普段は素直では無くどちらか言うと、ひねくれた印象を受ける。が、無自覚なこの素直さこそが本質である。
「ん。ごめんな?埋め合わせはまた今度するわ。メールするし!」
そんなとずっと付き合っているのは、一重にそこに心地良さを覚えるからだ。その言葉に小さく応える。
夕飯を食べに行く予定だったのか、ぎりぎりまでこちらに残っていたからだろう。が競歩で街路を進む。
正直、また人にぶつかるのではないかと思った。「こけんときや」「気ぃ付けや」と、思わず心配の声が出る。
が、微塵も気にした様子が無い。器用にも二人の方を振り返って手を振りながら遠ざかる。前を向け、前を!
そして――人波の中に消えた。
今日は姉が帰省するから外食のようだ。久し振りに回転寿司でも食べに行こうか、と言う話になったらしい。
ちょうど街中に位置するその店で待ち合わせになっていた。時間が迫っていたため、自然と歩調が速くなる。
久し振りに会う姉はどうしてるだろうか。きっと、素直じゃないから久し振りに会ったところで喜んでくれない。
でも、きっと会えば面倒臭そうにこう言うのだ。
『あんた相変わらずやなぁ・・・』
落ち着きがない、とか、アホ面とか。酷い言葉のオンパレードだが。だがその程度で凹んだりなんてしない。
「おかえり」と言えば、微かに表情を緩めて「・・・ただいま」と、答えてくれる。姉のその笑顔が大好きなのだ。
にも意地があるからそんなことは死んでも言わないが、楽しみでならない。会えることがとても嬉しい。
(はよ会いたいなぁ・・・)
寿司屋の付近で見慣れた人影を視認する。耳につけたイヤホンを外しながら少しずつその距離を縮めた。
もともと悪戯が大好きなは、こっそりと後ろから忍び寄って驚かすのが好きだ。反応を見るのが楽しい。
ある程度、距離を縮めて仕上げとばかりに一歩踏み出す。家族は会話に夢中でまだに気付いてない。
踏み出した瞬間だった。
「わ・・・っ・・・えぇ!?」
ほぼ同時に視界が歪む。落ちる感覚と同時に世界が反転した。何が起こったのか、理解が追い付かない。
その声はどうやら家族に届いたようだ。が、姿を視認することは出来なかったらしい。探しているみたいだ。
(ここにいるよ・・・!)その声さえ音にならず歪んでいく。「あれ?」。最後に聞いたのは不思議そうな姉の声。
"
"
――名前を呼んだのは誰だったのだろう。
そして扉の向こうへ
(ホワイト、アウト)