――いきて、

そして しあわせに―――。


「そんな顔してたら、テイト君も驚くよ」

「大丈夫?」と、ラブラドールの冷たい指先が目元を拭う。覚束ない意識の中、それで泣いてたと気付いた。
少しずつ意識が晴れて完全に覚醒すると同時に、微睡みの中で見た夢の内容が鮮明に脳裏に浮かんだ。

あの世界で、なに、を、見たのか。


「・・・・・」

冷やかしの声も気にならない。周囲に気を向ける余裕すら無くて、ただ、目の前に在るものに縋り付いた。
手繰り寄せる様にラブラドールに抱きついた。テイトの驚愕の声とカストルの意外な声。フラウのひやかし。
普段ならその行動を恥ずべきことだと考えた。だって、いい年して誰かに縋るなんてあまりに格好が悪い。

「・・・怖い夢でも見た?」

最初は驚いた反応を見せたラブラドールも何か察したのか小さく息を漏らして子供をあやすように尋ねた。
腹部に腕をまわして顔を埋めたまま微かに首を横に振る。ラブラドールの冷たい体温が少しだけ落ち着く。
それは望んだ温もりとはまるで違うけれどその冷たさが逆に昂ぶった感情を鎮静化させてくれる。大丈夫。


(・・・・・ちがう)

もう一度 首を横に振る

あの夢は決して怖ろしいものでは無かった。怜が現れた夢が怖ろしい筈なんてない。愛おしくて堪らない。
否、嘘だ。怖かった。夢だと分かったから余計に怖くて堪らなかった。違う。怖いのではなく痛かったのだ。
夢の中の怜はあの時と少しも変わらず優しくて、だから、余計に痛い。愛おしくて堪らなくてとても切ない。


「怜、が・・・」

言葉が続いてくれない。告げたのはその一言だけだ。言葉にしたら今度こそ堪え切れなくなりそうだった。
だがこの場に居る者はとはそれなりに長い付き合い。その言葉である程度の事情を察したのだろう。
「良い夢じゃねぇか」と、フラウの言葉が耳に届く。だが、は無言で首を横に振った。そうは言えない。

決して良い夢だとは言えない。否、たとえ夢の中であったとしても会えたことはもちろん素直に嬉しかった。
だけど、違う。そうではない。怖かったのだ。悪夢だとは言わない。だけども、痛くて切なくて愛おしかった。
普段は誰かに曝け出すこともそれ自体を抱くことも許してはいない。だが、どうしようもなく満たされる感覚。
夢だと分かっているから触れることの不毛さを知っている。だけど触れてしまう。それを悪夢とは思わない。

でも、


「・・・・・何か、言われたのか?」

テイトは釈然としない想いのまま尋ねた。『怜』という存在に直接会ったことはない。あくまで聞いた話だけ。
だが、にとって欠かせない存在ということは知っている。もう既に思い出に昇華したのだと思っていた。

だけど全然違った。

は今も過去を昇華出来ずに居る。それを背負って生きるつもりも無い様だが、それでも根幹に関わる。
テイトは怜に限って、を傷付ける事をしたり言ったりはしないと思っていた。不用意に傷付ける筈ない。
だがはその問いに対してこくりと頷いた。言葉を選んでいるのか、沈黙の間を置いてから口を開いた。


"いきて"――と、


「それのどこが良い夢では無いんですか?」

カストルが解せないといった表情を浮かべて尋ねた。そんなにも想われていて、どうして、そうなのだろう。
のことは妹のように可愛がっているが、その思考だけはどうしても理解できない。良い夢の筈なのに。

『怜』は尊い。まっすぐに、を愛している。それは、種を超えた恋愛といった類のものでなくもっと尊い。
命を懸けることを惜しまず、ただ己の小さな主の幸福を願っている。だからこそ惜しく思うのは否定しない。
と『怜』の間には確かな、こんなにも強固な絆が存在するというのに器がないがために繋げないこと。


「なれへんよ」

「・・・・・なれるわけない」。澱みも感じさせずに、はぽつりとそう呟いた。漆黒の双眸が虚空を見つめる。
気を抜けば消えてしまいそうな声。短いその言葉は何かを堪えているようにも感じる。ただ、空っぽだった。


幸せになんて、なれるわけがない。

なって、いい筈ない。


頑なに――そう思っていた。



「・・・・・・どうしてそんな風に思うの?」

「なれるわけない、なんて、かなしいこと、どうして・・・」。今度はラブラドールが尋ねた。とても静かな声調。
いつもより単調な印象を受ける声が降る。それに対しては言葉ではなく、司教服を握り締めて応えた。

「なりたくない。なれない」

なっちゃいけない、とは、流石に言葉にしなかった。「・・・だって、私は」。紡ぎ掛けた言葉の後が続かない。
「・・・私が、」。言えない。否定されると分かってる。でも命を奪ったのは自分だ。そんな自分に権利は無い。

――なっていい筈がない。


どうして、幸せになんてなれようか
どうして、幸せになろうなどと思えようか

無理だ。

なれない なりたくない なっちゃいけない

だって、私は罪を犯した
だって、私が死なせた

幸せを求めることなんて 赦されていない


「っ・・・のせいじゃないだろ!なんで分かんないんだよ!!それじゃ・・・」

何のために『怜』が庇ったのか分からない。どうして、彼の残した最後の願いをわかろうとしないのだろう。
最期の瞬間まで『怜』が誰を想って逝ったかを。どうして一番傍に居た筈のが分かろうとしないのか。
募る苛立ちを感情的な言葉に乗せて紡ぐ。責めたいわけではない。だけど、こんなのあんまりだと思った。

「護ってなんて・・・たすけてなんて頼んでへんやんかっ!」

テイトの言葉に対し初めては声を荒げた。こんな風に声を荒げる姿を見たのは、初めてかも知れない。
いつだっては己の感情を器用に制御して本心を煙に巻いて隠そうとした。笑顔の下に形を潜ませた。
決して大きな声では無い。だが、吐き出した言葉は今にも泣きそうなそんな響きを孕む。言葉は止まない。


――ずるいよ。

誰もまもって欲しいなんて頼んでへん。むしろ、何一つまもってくれへんかったやんか。どうして居ないの?
どうして居なくなったの?勝手に庇って、勝手に置いて逝って。まもって欲しいなんて一言も頼んでいない。
ただ傍に居られたらそれだけ良かったのに。なんで庇ったりしたの。なんでまもろうとしたの。弱いくせに。

あまつさえ、

『しあわせになって』――なんて、勝手過ぎる。


「なりたくない・・・」

一息に感情を吐露して僅かに息が弾む。消え入りそうな声でそう呟くを見て、傷付いていると知った。
忘れたくても忘れることの出来ないいとしい存在のこと。たとえこれから先、何年経とうと決して褪せない。

生きているだけでもう十分じゃないか。どうして、それ以上の幸福とやらを求めなければいけないのだろう。
どうして、生きているだけではいけないのだろう。それだけでは足りないと、もっと、なんて言うのだろうか。
別に幸せになろうなんて思わない。幸せであることが必要なこととは思わない。だって自分は強欲だから。

――なれるわけがない。


「・・・・・どうやって幸せになれるんさ」

「怜がいないのに」と、吐き出すそれが根幹。は幸せになることを望まない。欠片が足りないのだから。
失くしてしまったのは自分の失態。一生赦されないし、赦されてはいけない。贖罪を求めてはいないのだ。

「・・・・・」

ラブラドールは黙ったまま手を伸ばしてそっとその身体を抱きすくめた。すっぽりと腕に納まる小さな身体。
誰もそれ以上は咎めることも何か言おうとはしなかった。否、出来なかった。ただ、哀れな子だと、思った。
否、哀れというよりも不器用な子供なのだ。それでいて本質的に純粋な子。その本質を覆うのは不器用さ。

一人では立っていられ無い程に弱いくせに、それでも、誰かに縋るわけでもなく、ただ歩き続けようとする。
生まれ落ちたことが罪、ひたすらに、生き続けることが罰。ただ、緩やかに朽ちていく日を待ち続けるだけ。
この子の本質を作り上げたのは間違いなく『怜』だ。そして、環境が。この子の、穢れなき本質を構築した。

何も望まないと言いながら、何一つとして捨てられない。

相反するその甘い考え方が今までの行動理由に起因するのだとすれば、おそらくそれは正しいことだろう。
たった一つを想うその揺らぎ無さが信念を生み、失くした悲しみが彼女をよりいっそう他者に優しくさせた。
本人は決して認めはしないだろう。弱い側面を差し引いたとしても己が周囲を包み込む存在だということ。

だが、そんな彼女がどうしようもなく愛おしく思えた。


「それが・・・罰、なんだろ」

口にしてテイトは気付いた。ずっと、は自分に似ていると感じていた。その理由に、今、漸く気付いた。
ミカゲを失くしたとそう思っていた頃の自分。実際は魂を分割して片方がフューリングに、もう片方がまだ。

いつ目覚めるかも知らないがそうなるように仕組んだのは紛れもないだった。同じだったからなのか。
掛け替えの無い友を失くす痛みを知ってるから、そうならないように。だとしたら、納得させる言葉が無い。
自分だって本当にミカゲを永久に失ってしまったとしたら。きっと赦せない。そう思えるから何も言えない。


(でもな、・・・)

思ってしまう

自分には、ミカゲがまだ居るからそう思ってしまうのかも知れない。まだ、永久の喪失を知らないからこそ。
それでも、幸せになって欲しいと願ってしまう。たとえがそれを望まなくとも、幸せに生きていて欲しい。
愛する者の不幸な顔や自らを傷付ける姿なんて見たくない。どうしても傷付けてしまうなら強引だとしても。

枷にしても構わない。

そうすることで導を見つけられるというのなら。相手を縛り付けるだけの枷になったとしても構わないと思う。
たとえばそんな想いが募って言葉になるとしたら、きっと『怜』でなくてもそう伝えると思う。明確な枷になる。


『いきて――しあわせに』

それが――課された罰だ、と。


こうふくなのは、 (伝えたのは白い願い、そこに微かに染みる黒い欲)


また、夢を見た――。


怜はやっぱり慈愛に満ちた眼差しをこちらに向けている。変わらないな、と、思うのと同時に、少し切ない。
変わらないということは、時を止めてしまったから。私と怜はもう別々の場所に居るのだと思い知らされる。

まだもう少しだけ傍にいたかったよ。

『ありがとう』なんて言えない。『ごめんね』だなんて言えない。君に伝える言葉がまだ私は見つけられない。
きっとこれから先、何度だって思い悩む。何度だって、怜を想い、辛くて苦しくて、自制し切れない日が来る。

幸せを求めることはとてもおそろしい。

それでも、私はきっと、生きる事を放棄できない。それでも、私はきっと、足を止めたりはしないのだと思う。
単純に私が臆病で弱いからなのかも知れない。死という選択肢に慄いて選べないだけなのかも知れない。
幸福になりたいと、求めることは怖い。それでも、私はきっと周囲の人々に支えられて生きていくのだろう。

――『ずっと、傍に』 。

そんな声が聞こえた様な気がして、顔を上げると怜と目が合った。穏やかな夜色の双眸が私を見つめる。
短く吠える声と揺れる尾がまるで励ましているかのように思う。黄昏色の柔らかな毛が風に揺られて靡く。
不意に思い出した様に怜が腰を上げる。聞こえたのは風の音。その向こうに虹色の橋が見えた気がした。




幸福を求めることはむずかしい。

[2013年10月16日 脱稿]